PEOPLE OF THE BOOK

古書の来歴(啓典の民)

神谷武夫

PEOPLE of the BOOK : Geraldine Brooks, 2008
ジェラルディン・ブルックス著 森嶋マリ訳
2010年、ランダムハウス講談社、B6-519pp.


 昔から本が好きで、それも 単に読むためというだけでなく、本そのもの というか、美しい本を見るのが好きです。となると、文字だけが並んだ本よりも、絵や写真や図面が入った、美術品のような本が好きです。建築の本(建設工学の本ではない)というのは、基本的に そうした本を主とするので、値段は高いけれども、ついつい 沢山買ってしまいます。インドやイスラームの建築史研究者となってしまいましたので、建築史学上の重要な本に 目を通しておく必要ができてきますので、古書を買うことが多くなります。そして、日本ではインドやイスラーム建築の本など ほとんど出版されていませんので、その ほとんどは洋書になります。今から15年以上前には、そうした洋古書を手に入れるのは 大変に困難でしたが、インターネットが発達してから というもの、世界中の古書店に いとも簡単に注文できるようになったので、実に便利になり、欲しい本がすぐに手に入るので、出費が かさむ一方です。

 そういうわけで、本に関する本 を読むのも楽しいので、あまり読まなくなった小説も、古書に関する小説 などと聞くと、つい手が 伸びてしまいます。ここに紹介する『古書の来歴』というのもそうで、500年ほど前に スペインで制作され、奇跡的に現代まで生きのびた(実在の)ユダヤ教の細密画入りの古写本にまつわる、現代と過去を行き来する物語は 実に面白く読みました。しかも、ジャイナ教の古写本『カルパ・スートラ』についての章を書いているところだったので、一層興味が増しました。古写本に関わった書家、細密画家、製本師、そして修復家の数奇な生涯、過酷な境遇、残酷な運命 などなど。

 中世の修道院の写本室での 細密画入り写本制作というと、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』という小説を思い出します。ショーン・コネリー主演で 映画にもなりました。あの場合は ヨーロッパにおける古写本の話でしたが、今回の『古書の来歴』は 旧ユーゴスラビアの サラエボに伝わる古写本で、ユダヤ教の「過越しの祭」の式次第と 朗読される詩篇が書かれた『ハガダー』、その歴史を 事実とないまぜにした小説家の想像力でたどると、サラエヴォから ヴェネツィアへ、セビーリャへ、エルサレムへと 物語が遡ることとなり、ユダヤ教、イスラーム教、キリスト教が さまざまに交錯する混沌とした世界へと導かれます。

 この本の邦題は『古書の来歴』ですが、原題は "People of the Book" で、訳書の表紙にも 大きく書かれています。多くの日本人は この原題を見て、この小説には『サラエボ・ハガダー』と呼ばれる古写本をめぐって、中世から現代までの、さまざまな時代の さまざまな人物が 登場することから、「ある古書をめぐる人々」として、この題名がついたのだろう と思いがちですが、People of the Book というのは もっと別な意味をもっていて、著者は むしろ その意味に基づいて この題名をつけたのです。
 簡単に言えば、これは「啓典の民」という意味です。 'The Book' というのは「啓典」あるいは「聖書」という意味で、イスラーム教の「聖書」は『クルアーン』(コーラン)ですが、唯一の神から下された(啓示、神の言葉としての)ユダヤ教や キリスト教の『聖書』をも、ムスリムは 啓典として認めます。したがって、それらの啓典に基づく宗教は イスラームにとっての兄弟宗教であり、その信者、すなわち ユダヤ教徒とキリスト教徒は、全くの異教徒や異端、あるいは 無明の民ではなく、友邦なのです。 それを、「啓典の民 (People of the Book) 」と呼びました(アラビア語では「アフル・アル・キターブ」)。
 この小説では、本来 友邦である筈の三宗教の徒が、互いに相手を抹殺したり 文化を破壊したり、あるいは逆に 守ったりする葛藤が描かれるので、それら三者をひっくるめた形で「啓典の民」という題名をつけたのです。

 しかし、ユダヤ教徒は 'The Book' というのを、もう少し狭く、「ヘブライ語の聖書」、すなわち "Old Testament"(旧約聖書)と捕える傾向があり、その場合の 'People of the Book' というのは、ユダヤ教徒のことです。この小説では 三宗教の葛藤が描かれますが、とりわけ ユダヤ人の受難が 徹底的に描かれます。たいていのユダヤ人が この書の題名を見ただけで そう思うように、著者(オーストラリア人、女性)の ジェラルディン・ブルックスは、ユダヤ人(の血をひいている)のでしょう。 それが、小説の主人公の来歴に 反映しているのだと思われます。
 この小説は、現代の古写本研究と修復の学問世界の舞台である ニューヨーク、ウィーン、パリ、ロンドン、シドニーと行きつ戻りつしながら、主人公の女流古書鑑定家の 母親との葛藤を織り交ぜながら、テンポよく進む描写が、見事な翻訳とあいまって、手に汗を握る 知的なエンタテイメント小説となりました。お勧めです。

( 2010 /05/ 01 )


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