| 『 愛情は ふる星のごとく 』 |

尾崎秀実 著 『 愛情はふる星のごとく 』
昭和 21年 (1946)、世界評論社、定価20円
もう 知る人は 少ないでしょうが、戦後すぐに ベストセラーになった『愛情は ふる星のごとく』という本が ありました。今から ほぼ 80年前の本で、ある死刑囚から 家族に宛てた「 獄中書簡集」という、特異な本です。これも 今では知る人が少なくなってきた「ゾルゲ事件」に連座して、日本が敗戦を迎える直前(9ヵ月前)に 死刑になった 尾崎秀実 (おざき ほつみ 1901-44) の、獄中から 家族(妻・英子と 娘・楊子)に宛てた 書簡集です。敗戦の翌年 (1946) に、世界評論社という 今はない出版社から上梓されるや、大ベストセラーになりました。
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● 尾崎秀実 著 『 愛情はふる星のごとく 』 表紙と奥付
■ 尾崎秀実 著 『愛情はふる星のごとく』昭和21年、世界評論社版 目次
夜明けの近きを信じつつ ー 序にかへて ー 尾崎英子 1
世界評論社というのは、尾崎と親交があった 小森田一記(かつて『中央公論』の編集長で、1944年に「治安維持法」に違反したとして 60人から 90人の編集者や新聞記者が逮捕され、4人が獄死したという「横浜事件」で 投獄、拷問された人)が 戦後すぐの昭和 21年に興した出版社で、創刊号から 河上肇(はじめ)の『自叙伝』を連載した 硬派の論壇誌『世界評論』(1946-50) でも 知られています(フランスの『両世界評論 (La Revue des Deux Mondes) 』誌に倣った誌名でしょうが、「民主主義日本」を創ろう と言う 熱気に満ちた雑誌でした 。 ![]()
●『 世界評論 』 1946年2月 創刊号、世界評論社、復刻版表紙
河上肇は この連載中に死去したので、すでに全編 脱稿していた『自叙伝』の原稿を 翌 昭和 22年に 世界評論社が出版しました。 その、京都帝国大学教授でマルクス主義の研究者、共産党員だった 河上肇でさえも、投獄中に「獄中独語」(実際運動とは関係を絶つという 転向宣言)を出して、社会に大きな衝撃を与えたのですから、次節で扱う「転向」ということが、思想上に いかに大きな問題であるかを示しています。
私は 大学を卒業しても 就職せずに、1年近く 毎日 朝から晩まで 本を読んでいました。自分の進むべき道を見つけるために、世界の思想と文学を 歴史順に読み、そしてまた 日本の近代史の本を あれこれと 読みましたが、その中で 最も印象深かったのは、鶴見俊輔を中心とする「思想の科学研究会」による『共同研究・転向』全3巻でした(平凡社)。 日本の近・現代の代表的知識人、思想家、政治家、文学者を 数十人採りあげ、主に「転向」という観点から 一人ずつの 思想的変遷を「思想の科学研究会」のメンバー(藤田省三や 橋川文三、高畠通敏など 若き俊秀たち)が分担して執筆した(概して批判的な)論文集で、「戦前篇」「戦中篇」「戦後編」の3巻にまとめた、小さめの活字で ぎっしりと2段組みに印刷された、総 1,400ページになる 記念碑的出版です。読んでは考え、読んでは思索し、読了するのに3ヵ月くらいかかりました。
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● 思想の科学研究会 編 『 共同研究・転向 』上・中・下、函 ここで「転向」というのは、それまでは、共産主義者(主に党員)が 国家権力によって弾圧されて その思想を捨て、国家の方針に順応すること(甚だしくは 国家主義者や天皇主義者となること)として、官憲によって用いられてきた言葉を、もっと広く 大きく、社会主義者も 自由主義者も 思想的転回 ないし変節をするし、逆に思想を深めていくこともある、さらには 戦前右翼が 戦後の平和主義者になることもある、そういった「外的強制による思想の変化」から、時代の大勢に従った「なし崩しの転向」まで含めて、総合的に、詳細に 理解しようとして 用いた言葉です。
そういう意味では、20世紀は「戦争と革命の時代」だと言われましたが、見方を変えれば、思想家ばかりでなく、国の指導者から一般大衆に至るまで、「世界中に 転向の嵐が 吹き荒れた時代」であって、本格転向、仮面転向、偽装転向、追随転向、さらには 大勢順応転向、なしくずしの転向、無意識転向 等々、ほとんど 誰も彼もが、時代の荒波の中で 転向していった時代だった、と言うこともできるでしょう。
この『共同研究・転向』の中で 私が一番興味深く読んだのは、上巻の 第1章 第9節、鶴見俊輔 による 「虚無主義の形成」(埴谷雄高論)でした。私が 埴谷雄高に のめり込む きっかけになったのは、この論文です(のちに鶴見の、埴谷雄高に関する論考や座談を集成した『埴谷雄高』(2005) が講談社から出版されました)。
埴谷雄高の8歳上の 尾崎秀実 については(この二人は 父の仕事の関係で 幼児を 植民地の台湾で過ごし、台湾人に対する 日本人の横暴な態度を見て 日本嫌いになってしまった という点で 似ています)、中巻の 74〜91ページ(東洋文庫版では 3「戦中篇(上)」の 136〜165ページ)で、「第2章 自由主義者、第1節 翼賛運動の設計者」の所に、誰にも知られなかった「偽装転向者」(隠れ共産主義者)として、これまた 鶴見俊輔が 懇切な批評を書いています。私が 尾崎秀実について 最初に知ったのは、これだったでしょう。 今から 50年前に これを読んで、そこに触れられていた 尾崎の獄中書簡集『 愛情はふる星のごとく』を すぐに青木文庫で購入して読み、深い感銘を受けたのでした。
『愛情はふる星のごとく』は、日本のジャーナリスト(朝日新聞特派員)・政治評論家で ゾルゲ事件により 太平洋戦争末期の 1944年に 43歳の若さで刑死した、尾崎秀実の書簡集で、著者の死後、1946年9月に世界評論社から出版されました。副題は「獄中通信」です。誰にも知られない共産主義者でもあった尾崎が「治安維持法違反」(スパイ活動)の容疑で 1941年(昭和19)に逮捕された後、未決囚から死刑判決を下されて執行されるまで、収監されていた3年間に執筆された書簡には、獄中の尾崎から妻と娘に宛てられた個人的なメッセージが綴られています。
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(左)● 尾崎秀実 著 『 愛情はふる星のごとく 』上下2冊、1952年(昭和27)青木文庫
本は、尾崎の死刑が確定したとき、尾崎の親友の 松本慎一が 尾崎の妻 英子に働きかけて 出版を計画したものです。書簡は まず『世界評論』や『人民評論』などの雑誌に連載されました。上述のように『世界評論』誌の創刊号(1946年2月)には、尾崎の「遺書」(p.63-73) が 載っています。同号には 世界評論社から 刊行予定の本の一覧表があり (p.91)、河上肇の『自叙伝』や 平野義太郎編の『幸徳秋水全集』などと並んで、尾崎秀実の『遺書 ― 書簡選』があります。この半年後の出版になる尾崎の獄中書簡集の題名は、まだ決まっていませんでした。 「思えば私は 幸福な人間でした。 この一生 いたるところに 深い人間の愛情を感じて生きてきたのです。 わが生涯を省みて、今 燦然と輝く星の如きものは、実に 誠実なる愛情であったと思います。友情は そのうちに 一等星のごとく輝いています」 この、当時のほとんどの本と同じような 粗末な造りの本が、世界評論社から発売されるや 爆発的な売れ行きとなり、1946年と 1947年の日本の書籍売上げで2位を占め、1948年には1位となり、その後も長く人気を維持して、大ロングセラーとなりました。総部数は 15万部近くになったということです(戦後の紙不足にもかかわらず)。 本の冒頭に、尾崎の妻の 英子による「夜明けの近きを信じて ― 序にかえて ― 」という 4ページにわたる文が 掲載されています。その中に 英子は、 「この度、尾崎や 私たちに、蔭になり 日向になりして 深いお心づかいを して下さった 幾人かの お友達の手によって、この書簡集が 世に送られることに なりました。この手紙は、私たちの個人的な生活の範囲で 語られた言葉でしか ございません。そして 私の性分からいっても、人びとの前に 話題を提供することは、あまり 好ましいことでは ございません。
と書いています。 ![]()
●風間道太郎 著 『 ある反逆 尾崎秀実の生涯 』1959年 (昭和34) 至誠堂、320円
尾崎秀実の墓は「多摩霊園」にあり、多磨霊園の HPに 尾崎の略伝 が載っていて、尾崎秀実について 手っとり早く知るには 便利でしょう(ゾルゲと 尾崎の墓を訪ねる 27分に及ぶ ビデオ、『ゾルゲ事件の お墓ツアー』も 付いています)。 演劇では、1962年に 木下順二が ゾルゲ事件の尾崎秀実を『 オットーと呼ばれる日本人 』として戯曲化して 岩波書店の雑誌『世界』に発表し、宇野重吉などの「劇団民芸」が初演しました。オットーというのは、秘密裏に尾崎を呼んだ名前です(当時の駐日ドイツ大使 オイゲン・オットと紛らわしいですが)。ドイツ人のオット大使は ゾルゲがスパイであったことは知らず、むしろゾルゲの保護者でしたが、その夫人のヘルマは、ゾルゲのリーベであったと言われます(I-p.544)この戯曲では、ゾルゲは ジョンスン、スメドレーは 宋夫人、クラウゼンが フリッツ、石井花子が ゾフィーという名前で登場し、尾崎の 妻や娘まで出てきます。第1幕「1930年代初頭の上海」、第2幕「1930年代半ばの東京」、第3幕「1940年代初頭の東京」の3幕構成に、検事が尾崎に「転向書」を書かせようとする「エピローグ」から成りますが、私は やや尻切れトンボのような印象を受けました。でも、舞台で見れば、もっと違う印象を与えるのでしょうが。また、木下順二が この戯曲を書いたのは、のちにGHQ のエージェントであったことが明らかになる川合 貞吉の『ある革命家の回想』に基づいていたと言われます。
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●『 オットーと呼ばれる日本人 』木下順二 戯曲選 III,1982年、岩波文庫 近年は、歴史家の太田尚樹が『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』という、小説のような 「歴史物語」を書いて、現代の目から見た この3人の活動と関係を、若い人にも 読みやすく、しかし詳しく 描いています。実に良く調べていて、「ゾルゲ事件」について 初めて知ろうという人には、大変優れた 読み物です。
朝日新聞の 中国特派員(大阪朝日新聞社・上海支局員)である 尾崎秀実(1901-44)は、弱者の味方のジャーナリストとして 世界を股に掛けるアグネス・スメドレー (Agnes Smedley, 1892-1950) と親しくなり、またスメドレーと親しい ジョンソンと名乗る、実はリヒアルト・ゾルゲ(Richard Sorge, 1895-1944)と3人で、上海で 親しく つきあいました。尾崎はスメドレー の 自伝的著書 "Daughter of Earth(大地の娘) " (1929) を 白川次郎というペンネームで翻訳して、『女ひとり大地を行く』という題名にして、改造社から出版しました。そこには スメドレーの前半生、主にインド独立運動の亡命革命家であったヴィレンドラナート・チャットパディヤーヤと 1919年に同棲生活を始めてからの、インドの独立運動への協力が語られています。
スメドレーの、戦中に書かれた もっと長大な自伝 "Battle Hymn of China" (1943) は、高杉一郎の訳で『 中国の歌ごえ 』として 戦後の 1957年に みすず書房から出版されました。スメドレー女史の壮絶な生き方と、ヴィヴィッドな中国革命史を知る上で、面白く、非常に優れた本です。
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●『 女ひとり 大地を行く 』アグネス・スメドレー著,白川次郎 訳、1934年
私が 毎日 朝から晩まで本を読んでいた頃の ひとつの柱として、日本の近代史関係の本を読んでいた時 「ゾルゲ事件」に興味を持ち、尾崎秀実の異母弟の 尾崎秀樹(ほつき)1926-1999) が書いた『 ゾルゲ事件、尾崎秀実の理想と挫折』(1963 中公新書)を読んで、尾崎秀実とゾルゲ事件について、初めて 詳しく知りました。「国賊」として処刑された尾崎は、実は「軍国主義」「帝国主義」の日本を倒そうとしていたのであって、心の根底は 日本に対する「愛国者」であったのです。
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●『 ゾルゲ事件、尾崎秀実の理想と挫折 』 尾崎秀樹 著
ドイツ人を父親、ロシア人を母親とする リヒアルト・ゾルゲ (Richard Sorge) は、1929年に ソ連の赤軍第4本部に所属し、満州事変の翌年の 1932年に 34歳で中国に配置されました。満州における 日本の動向を探るためです。日本帝国が満州の後、矛先をソ連に向けるかどうかが 最大の問題だったのです。ゾルゲはドイツの有力紙『フランクフルター・ツァイトゥング』の特派員の肩書で中国から日本に活動の場を移し、スパイ団として「ラムゼイ機関」を組織し、無線技師の マックス・クラウゼンや、電気通信員の ブランコ・ヴケリッチらを メンバーとし、近衛文麿の側近だった 尾崎秀実にも 協力者になってもらいました。当時のコミュニストたちにとって、最初の社会主義国家であるロシアの「ソビエト同盟」を守ることが、最重要事でした。 リヒアルト・ゾルゲは非常に頭脳が優れ、しかも 誠実な性格で 勉強好き、日本文化についても深く研究して『日本書紀』や『源氏物語』を始めとする膨大な古典の英訳を読み、奈良、京都、鎌倉の古都を愛して しばしば訪れました。逮捕されて 後、彼の弁護士はもちろん、逮捕した特高刑事や 担当検察官、裁判官までからも、尾崎以上に 深く尊敬されました。彼は最後まで仲間をかばい、自分一人の罪だと主張して、特に 尾崎秀実と 石井花子に害が及ぶのを避けようとしました(石井は起訴されませんでしたが、尾崎は死刑になりましたが)。彼の心の根本は 故郷のドイツとロシアにありましたが、絞首刑になった時、最後の言葉を求められて、「ソビエト、赤軍、コミュニズム」と3度 唱えたそうです。 一方、従容として刑死した尾崎秀実は、「遺書」の中で 妻の 英子に宛てて、次のように書いています。 私の最後の言葉を もう一度 繰り返したい。「大きく眼を開いて この時代を見よ」と。真に時代を洞見するならば、もはや 人を羨む必要もなく、また 我が家の不幸を嘆くにも 当たらないであろう。時代を見、時代の理解に 徹して行ってくれることは、私の心に 最も近づいてくれる所以なのだ。これこそは、私に対する 最大の供養であると。」 (『世界評論』1946年2月創刊号 p.72 )
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●『人間ゾルゲ 』石井花子 著、305pp、1967年、勁草書房 ゾルゲは、酒場「ラインゴールド」で ウエイトレスをしていて、教養もある 石井花子(母方の姓の 三宅華子とも称した)と知り合って 愛人関係になり、ほとんど一緒に暮らしました。石井花子は ゾルゲがスパイであることは知りませんでしたが、彼を深く愛して日本人妻となり、ゾルゲの死後に 回想録を書いて 本にしています。戦後には ゾルゲの遺骨を探し出して、その墓碑を建てました。石井の本は 1949年に日新書店から『人間ゾルゲ 』の題で出版されましたが、1956年に鱒書房から 増補版を出した時には『愛のすべてを』と改題しました。その 10年後の 1967年に 勁草書房が出版したときには『人間ゾルゲ 』のタイトルにもどし、第2章を「愛のすべてを」という章名にし、その後のことを 第3章として 「死者は眠れない」という章名で 書き加えました。これが「決定版」となり、徳間文庫や角川文庫に入ったこともあります。諜報活動員とは別の、私人としての ゾルゲという人間を知るにも、真に 男を愛した女性の 幸福と苦難の軌跡を知るにも、優れた本です。 ゾルゲ事件は3回 映画化されています。1回目は 1956年と古く、尾崎秀実の書簡集に基づいて『愛情は降る星のかなたに』と題して、監督が斎藤武一、尾崎役を森雅之が演じたそうですが、『人間ゾルゲ』の p.265には 神山茂夫の言葉として、「なんと馬鹿気た 反ソ・反共の映画であることか!」と書かれています。 2回目は 1961年の、まだ『現代史資料』も出ていない頃で、駐日ドイツ大使館で書記官だった ハンス・オットー・マイスナーが脚色して書いた『スパイ・ゾルゲ』(1958年に 大木坦 訳、実業之日本社)を原作に、石井花子の『人間ゾルゲ』などを参考にし、それらを読んで ゾルゲという人間に深く惚れ込んだ、当時 28歳くらいだった 知的な人気女優・岸恵子が映画化をもくろんで 主演もし、そのフランス人の夫の イヴ・シァンピ (Yves Ciampi) が監督した 日仏合作映画です。シァンピが脚本を書いた時の原題は「ゾルゲ氏よ、あなたは誰? (Qui êtes-vous Mr Sorge?) 」でしたが、松竹は「スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜」という題名に変え、内容まで メロドラマ風に変えてしまったという。しかし フランスとソ連では 大ヒットしたらしい(『岸恵子自伝』2024、岩波現代文庫、pp.184-190)。残念ながら ビデオにも DVDにもなっていないので、見ることはできません。
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● 映画 『 スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜 』1961年、監督:イヴ・シァンピ 今年の3月に 94歳で世を去った 映画監督の篠田正弘は、72歳のときに 映画人生最後の作品として 2003年に 大作『スパイ・ゾルゲ』を撮っています。リヒアルト・ゾルゲを主人公として、尾崎秀実や アグネス・スメドレー、宮城与徳や マックス・クラウゼン、ブランコ・ヴケリッチらの行動を 史実に忠実に描こうとした3時間の映画で、見ごたえがあります。ゾルゲをイギリスの舞台俳優 イアン・グレンが、尾崎秀実を 本木雅弘が演じています。日本で初めて、フィルムを用いずに 全編デジタルシネマ撮影で制作されました。 しかし 21世紀の日本で、昭和 敗戦前後の ソ連のスパイとしての「ゾルゲ事件」に興味を持つ人は それほど多くはなかったし、映画評も あまり芳しくなかったようです。「スパイ」という言葉を 前面に押し出し過ぎるのも、人々に否定的感情を与えてしまいます。同じ内容であっても、ゾルゲよりも 尾崎秀実を主人公として、題名を『愛情は ふる星のごとく』としてでもいたら、もっと多くの人、とりわけ 事件を知らない若い人たちの 興味を引いたように思えます。 「ゾルゲ事件」は、日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争を始めた昭和16年(1941)に、ゾルゲや尾崎秀実などスパイ・グループ全員が逮捕され、そのスパイ活動の詳細が報道されて国民にショックを与えました。しかし 戦後になると すぐに価値の逆転劇が行われ、終戦直前に死刑になった尾崎の『愛情はふる星のごとく』が出版されると、尾崎は「国賊」から反転して、むしろ 正義の使徒として 称えられました。しかし 事件の全貌が明らかになるには 時間を要し、最も重要な出版は、みすず書房を創業した 小尾俊人(おび としと 1922-2011)の偉業である『 現代史資料 』(全 46巻、続編 全 12巻)が 1962年に刊行され始め、その第1〜3巻で「ゾルゲ事件」の、検察調書から ゾルゲや尾崎の供述書など すべての記録、文書が収集・公刊されたことです(9年後の 1971年に出た第 24巻で、その補完資料も公刊)。この中で最も興味深い、尾崎秀実の上申書2通と ゾルゲの手記2編とは、のちに岩波現代文庫から尾崎秀実の『ゾルゲ事件上申書』(2003, 239pp.) と、リヒアルト・ゾルゲの『ゾルゲ事件 獄中手記』(2003, 284pp.) としても 刊行されて 読みやすくなっています(書名が似ているので注意)。
● 『 現代史資料 』第1〜3巻「ゾルゲ事件」 1962年 (ウェブサイトより) 上申書としての「尾崎秀実の手記(一)」は、まだ未決囚だった時に 尾崎が書くことを望み、裁判所からの要請の上で書かれました。それは妻子への追及・迫害を薄めるためのもので、1943年6月8日に提出されました。 「尾崎秀実の手記(ニ)」は、死刑判決がでたあとで 弁護士の勧めによって裁判所に出した「上申書筆記願い」が認められて書かれたものです。(一)の1年半後、1944年の6月から7月にかけて書かれました。これは「転向者の手記」などではなく、尾崎の思想家としての人生観や国家観をあきらかにしたものです。しかし それは 家族のために書かれた 減刑のための請願書でしたから、そこでは 国家および天皇制が肯定されていました。後に どこまでが本心なのか 議論されることになり、ここから、尾崎は偽装転向者だったのか、確信的転向者だったのか、そもそも それとは違う、風土と国体の保守・愛郷主義者だったのかが、さまざまに推量されることになります。 一方、ゾルゲの上申書は「手記(一)」と「手記(二)」から成り、「手記(一)」は検察の求めに応じて書かれたものですが、「手記(二)」はゾルゲが拘置所で自分の思想と人生を表明・記録しておくべく、自主的に毎日タイプライターを打ち続けて書き上げたものです。第1編では主に中国における諜報活動、第2編では主に日本における諜報活動 が、実に詳しく語られています。ゾルゲは逮捕はされたものの、死刑になるとは思っていなかったらしい。 ゾルゲが絞首刑になった時の最後の言葉は「ソ連万歳、コミュニズム万歳」だったそうです。 スターリン時代に禁句であったゾルゲは、のちにフルシチョフ時代のソ連で名誉回復されて「ソ連邦英雄」となり、故郷バクー(アゼルバイジャン)には ゾルゲの記念公園や記念碑が建てられました。
●『 ゾルゲ事件上申書 』尾崎秀実 著、2003年、239pp. 岩波現代文庫、900円
チャールズ・ジョンソン (1931-2010) はアジアの近代史の研究者で、その著『 ゾルゲ事件とは何か 』は ゾルゲ事件について徹底的に調べて書いた、最も学術的な本です。 1964年にスタンフォード大学出版局から出版され、1966年に『尾崎・ゾルゲ事件 ― その政治学的研究』という邦題で 萩原実によって邦訳されました。その後 みすず書房の『現代史資料』を始めとする 膨大な資料群や本が出版されたので、ジョンソンは 46年後の 1990年に『ゾルゲ事件とは何か』の「増補版」を出しました。増補の中心は、「伊藤律のユダ説」が 誤りであったことを「追補」として書くためでした。
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●『 ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙 』山崎淑子 編著
ブランコは パリ大学・ソルボンヌ校の 法科卒ですが、その前に ブルノ工科大学で建築を学んでもいて、「東京からポリティカへの手紙」の第 39回目「日本家屋は簡素で、家具や装飾は ほとんどないが、自然に向かって開かれている」(1935年3月3日) で、日本建築について よく観察した報告をしていて、当時 日本でチェコスロヴァキア領事をしていた 建築家 アントニン・レイモンドの活動についても 触れています (pp.196-201)。
その他、1933年(昭和8年)春から 1940年(昭和15年)末までの8年間に ヴケリッチが書いた 全 56編の記事で編んだこの書は、知的な 若い(29歳時から 36歳時まで)西欧人による 戦前の日本の観察記として、たいへん興味深く読めます。 「これらの手紙の中に 私が愛し、尊敬した 彼がいる。愛情深く聡明、陽気で冗談好き、悲壮がらずに 信念に忠実だった 彼がいる。」 と書いています。
( 2025 /07/ 01 )
● 『 愛情は ふる星のごとく、獄中通信 』尾崎秀実 著、尾崎英子 編註、世界評論社
● 『 新編 愛情は ふる星のごとく、獄中通信 』尾崎秀実 著、今井清一 編、岩波現代文庫
● 『 現代史資料 』第1巻「ゾルゲ事件1」 1962年 555pp. 小尾俊人 編
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