ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - LVI
坂本蠡舟 (健) 著
麻謌末(マホメット)
Ken-ichi Sakamoto :
" MAHOMET "
1899, Hakubunkan, Tokyo


神谷武夫
麻謌末
坂本蠡舟 (健) 著 『 麻謌末(マホメット)』 博文館
A5判、ペーパーバックの簡素な本、明治 32年 (1899)

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トマス・カーライル著『 英雄論 』

 「古書の愉しみ」の第56回は 予告したように、前回の「古書の愉しみ」で採り上げた「クルアーン」の最初の邦訳者、坂本蠡舟(健一)による『 麻謌末(マホメット)』で、明治32年 (1899) に出版された本です。しかし その頃には、マホメットのことが すでにある程度 読書界に知られていました。19世紀のイギリスの著作家、トマス・カーライル(1795-1881、寛政7年-明治14年) の代表作、『英雄論』 (1841、天保12年)が明治26年 (1893) に 石田羊一郎と 大屋八十八郎の翻訳で『英雄崇拝論』として 丸善から出版されていたからです。明治31年 (1898) には 詩人の土井晩翠による翻訳も『英雄論』として 春陽堂から出版され、大いに人気を博したので、その後も 同書の多くの訳書が出版されました。原題は "Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History"(英雄、英雄崇拝、および 歴史上の 英雄的行為)で、特に「崇拝論」というわけではないので、「英雄論」の邦題のほうが 適切と思います。さすがに戦後は 忘れられたようになっていますが、 老田三郎(おいた さぶろう)訳の『英雄崇拝論』が、岩波文庫(昭和24年 初版)で入手できます。

カアライル     カーライル

(左)カアライル著 『英雄崇拝論』石田羊一郎・大屋八十八郎 訳
明治 26年 (1893)、丸善
(右)カーライル著『英雄論』土井晩翠 訳、明治 31年 (1898)、春陽堂
( どちらも 「国文学研究資料館」 のウェブサイト より )

 カーライルというのは 日本の福沢諭吉よりも 一世代上の著作家で、福沢と同じように講演もよくしましたが、この『英雄論』は 最後の講演です。6回連続で全6講からなり、「人類の指導者」であり「時代の救済者」である英雄としての、ダンテやシェイクスピア、ルタ-やルソー、クロムウェルやナポレオンなどと並んで、第2講は「預言者としての英雄、マホメット(回教)」に宛てられています(世界宗教の祖として キリストや釈迦でなく、マホメット(ムハンマド)を採り上げたのは驚きですが)。世界の歴史は、この地上で活躍した そういった偉人の歴史にほかならないとまで 彼は言います。そして 明治26年以来 何種もの『英雄論』の翻訳によって 日本の読書人のあいだで マホメットの名がよく知られ、その刺激のもと、以後「マホメット伝」が何冊も 日本人によって書かれ、出版されます。よほどカーライルの影響が大きかったので、その多くが 彼の本から一部を引用しています。坂本健一しかり、池元半之助しかり、忽滑谷 快天しかり、井筒俊彦しかりです。

 西洋において、中東に発したイスラーム勢力は「サラセン帝国」と呼ばれ、その勢力がスペインに「後ウマイヤ朝」を建て、一時はフランスからウィーンにま攻め込んだので、それに脅威を感じたヨーロッパのキリスト教国は 彼らを敵視し、ムハンマドを悪魔のように見なしました。しかしカーライルは そうした偏見を打破し、宗教的偉人として 公平な目でムハンマドを描きました。これによって明治の日本人は、イスラームとムハンマドを 西洋的偏見から離れて、「時代の救済者」たる「英雄」として 心に留めたのでした。カーライルは 講演の最初のほうで、次のように言っています。(老田三郎訳、岩波文庫、p.65)  

「マホメットを以て策略にたけた偽善者、虚偽の化身となし、彼の宗教をば山師的詐術と痴呆との集塊に過ぎずとなすが如き、吾等の間に広く流布されている臆説は、今はたしかに何人にも支持しがたいものとなりかけている。キリスト教に対する善意の熱心さから、この人物の周囲に積み上げられた虚構の説話は、いたずらに当事者たる吾等の恥辱となるばかりである。」

 次いで 偉人英雄についての一般的見解を述べたあと、カーライルは ムハンマドの生涯を語り、その事績を称賛していますが、『クルアーン』だけは、その繰り返しの多い記述に辟易し、「粗本、未熟にして退屈な紛乱せる混雑物」とまで言っています(p.94) 。キリスト教の『聖書』と比較すれば、慣れないだけに、確かに そう思った西洋人も多かったことでしょう。




林董 訳述『馬哈黙 (マホメット) 傳』

   これで、そのカーライルの本の影響を受けた、坂本健一の著作『 麻謌末(マホメット) 』の話になるかというと、驚くべきことに それよりも ずっと早く、何と明治9年 (1876) に、マホメット伝の翻訳が 和本で出版されていました。林董(はやし ただす)の訳述による『 馬哈黙(マホメット)傳 』です。まだ日本でイスラームが一般に知られるよりも はるか昔のことで、カーライルの『英雄論』も まだ邦訳されていなかった時代です。

馬哈黙傳

林董 訳述『 馬哈黙(マホメット)伝 』和本の表紙(ウェブサイトより)
「正編」と「附録巻」 半紙本 22 ×15 cm、整版印刷と活版印刷
明治9年 (1876) 干河岸貫一(ひがし かんいち)版(東京)

 林 董 (1850-1913) というのは 明治の外交官・政治家で、慶応2年 (1866) から2年間弱 幕府留学生としてイギリスに留学し、明治6年 (1873) からは2年間近く 岩倉使節団に 二等書記官として加わって、英語に堪能だったようです。前々回の東海散士こと 柴四朗より3年早い嘉永3年(1850)に下総佐倉藩に生まれ、幕臣として柴四朗と同じくして 新政府と戊辰戦争を戦い(北海道、五稜郭の戦い)、捕虜となったものの 後に許され、明治政府に仕えて 伯爵、外務大臣にまで出世した人です。「工部大学校」の設立にも大きな役割を果たしたそうですが、どういうわけか、26歳の明治9年 (1876) に、日本最古の「マホメット伝」を 訳述して出版しているのです。

 この『 馬哈黙(マホメット)傳 』は、英国の東洋学者 ハンフリー・プリドー (Charles Leslie Humphrey Prideaux, 1648-1724) による「Life of Mahomet」(1697、元禄10年) を底本としています。林は 柴四朗と同じく英語に堪能だったわけですが、なぜ これを翻訳したのかは、不明です。彼の回顧録『後は昔の記 他 ー 林董 回顧録』(平凡社「東洋文庫」173)には、この本のことは何も書かれていないので(巻末の年譜にさえも)、あまり熱心にやった仕事、記憶に残る訳業ではなかったのでしょう。(国立国会図書館のデジタル・コレクションで読めます。)

 本は「正編」と「附録巻」の2冊から成り、附録巻は 林薫の編纂のもと 深間内 基(ふかまうち もとい)が「欧州諸大家が 回教及びその教祖を論評せしもの」を翻訳したもので、今から 150年近く前の 明治9年 (1876) に、東京の明教社(干河岸 貫一(ひがし かんいち)主催)によって出版されました。この本の原題は『マホメットの生涯に明白に表れる 真の詐欺的本性 (The True Nature of Imposture Fully Display'd in the Life of Mahomet) 』といい、ムハンマドを徹底的に批判・攻撃しているもので、カーライルも この書などを 今や「排撃すべきもの」として 否定しています (p.95)。

馬哈黙伝

林董 訳述『 馬哈黙(マホメット)伝 』扉と本文(ウェブサイトより)
正編は 84丁、附録巻(深間内基 訳)は 46丁

 杉田英明の『日本人の中東発見』(1995,東京大学出版会, p.145-6 ) によれば、この本は 浄土真宗の僧・島地黙雷(しまじ もくらい 1838-1911)が「緒教ノ概略ヲ遍ク伺察」するために 西本願寺から派遣され、海外を歴訪したさいに入手した プリドーの『ムハンマド伝』を、林董が口述で翻訳し、島地の欧州視察に同行した僧侶・赤松連城 (1841ー1919) が 筆記したものです。英国のノリッジ大僧正 (Dean) だったプリドーの この著作は、デルブロ (B. D'Herbelot, 1625ー95) の『東洋全書』などと並ぶ、きわめて偏向した「キリスト教的不寛容の古典的見本」として、今日なお その名を知られている書物だ ということです。




坂本蠡舟 著 『 麻謌末(マホメット)

麻謌末

坂本蠡舟 (健) 著『 麻謌末(マホメット)』表紙、明治 32年 (1899)
博文館の「世界歴史譚」シリーズの一冊(第6編)
ペーパーバック、22.5 ×15 ×0.8 cm、146pp. 定価13銭

 日本人で最初にムハンマド伝を書いたのは、前述のように、「クルアーン」全編を『コーラン經』として最初に邦訳した 坂本健一で、『 麻謌末(マホメット)』と題する、今から 123年前の本です。「古書の愉しみ」として期待するような立派な本というわけではなく、むしろ簡素なペーパーバックの、少年向き「世界歴史譚」シリーズ(博文館)の一冊です。博文館というのは 明治20年 (1887) 創業の老舗出版社で、その名は伊藤博文に由来します。明治時代には日本で最大の出版社となり、大衆向けの総合雑誌『太陽』や『新青年』を発行したことでも知られています。
 「世界歴史譚」というのは、36編まで出された、偉人や英雄の伝記シリーズで、著者には高山樗牛、上田敏、柳田国男などがいました。挿絵や表紙絵は横山大観、下村観山、中村不折などが描いていますから、安直な企画ではなく、内容のあるシリーズだったと思われます。その第6編が、文学士、坂本蠡舟(れいしゅう)こと 坂本健(本名 健一)による『 麻謌末(マホメット)』で、挿絵は、美校卒の画家、北 蓮蔵 (1876-1949) が担当しました。坂本健一が帝大を卒業した翌年で、19世紀最後の1899年 (明治32) の発行です。

歴史譚
『 世界歴史譚』シリーズの 他の巻の表紙、博文館
「釈迦」「ワシントン」「ジンギスカン」の巻(ウェブサイトより)

 各巻とも 表紙に木口木版で 多色刷りの絵を載せるのを原則としていたので、『 麻謌末』の巻も そうしたのですが、ムハンマドの顔は 描かずもがなだったでしょう。日本で出版された「マホメット伝」で、表紙に 偶像的な ムハンマドの絵を掲げているのは これだけです。内部の挿絵にも ムハンマドが描かれています。北 蓮蔵は表紙絵を、「左手にコーラン、右手に剣」という 西洋人のステレオタイプで描きました。ヨーロッパ人による「剣かコーランか」という俗諺は広く世界に流布していて、のちに 大川周明は『安楽の門』の中で それをもじって、「かように 共産主義という新宗教が、全世界にむかって「剣か資本論か」と迫り、破竹の勢で四方を風靡しつつある・・」などと書いています (p.71)

麻謌末

坂本蠡舟 著『麻謌末』の 劈頭ページ, 明治 32年 (1899)
「麻謌末」は 表紙や奥付ではマホメットと書いているが、
本文中では 大体において ムハメット と振り仮名がしてある。



麻謌末

天上の神使ガブリェール 天神の聖意をもたらして降り、
空際微妙の声高く「読め。」

坂本健 著『 麻謌末(マホメット)』博文館
北蓮蔵による見開きの挿絵を一枚につなげてみた。

 著者の坂本健一という人は 生年不明ですが、「ウィキペディア」には 「1898年に東京帝国大学史学科を卒業。北京 京師大学堂(現・北京大学)への7年間の出向を経て著述業に従事」とあります。「出向」というのは、日中教育文化交流として日本人の学者たちが大挙して招かれ、中国語を学習するとともに 教員として勤めたようです。坂本は その在中国時代の中国哲学研究によって、後に老子や列子を 中国語から翻訳します(「世界文庫」の3冊)。
 帝大卒業の翌年に「世界歴史譚」シリーズの1冊として『麻謌末(マホメット)』の執筆を依頼されました。紙質も製本(針金綴じ)も あまりよくない本ですが、学生時代からイスラーム史に傾注していたのかもしれません。この実績によって、大正9年 (1920) に『世界聖典全集』(全30巻、世界聖典全集刊行會)が刊行された時に『コーラン經』の翻訳も依頼されたのでしょう。これは 前回書いたように、大正時代の意欲的な出版で、昭和5年 (1930) に この全集の完全な復刻版が改造社から出版されました(装幀は変更)。
 坂本健一は 明治の終わりから大正時代に、下記のような一般向けの西洋史や東洋史の本を 書いたり訳したりしましたが、大学教授には ならなかったようで、昭和5年 (1930) に 民間研究者として亡くなりました。

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< 坂本健一(蠡舟)の著作 >


風俗史  
坂本健一著『 日本風俗史 』、明治 33年 (1900)
博文館の「帝国百科全書」第 48編

● 『麻謌末(マホメット)』〈「世界歴史譚」第6編〉坂本蠡舟著、博文館、明治32年 (1899)
● 『日本風俗史』〈「帝国百科全書」第48編〉坂本健一著、博文館、明治33年 (1900)
● 『新撰東洋史』坂本健一・高桑駒吉共著、富山房、明治34年 (1901)
● 『通俗世界歴史』全6巻、坂本健一著、博文館、A5判, 大正5~7年 (1916~18) 
    第1巻:英吉利帝國、大正5年 (1916) 
    第2巻:独逸帝国、大正5年 (1916) 
    第3巻:露西亜帝国、大正6年 (1917) 
    第4巻:佛蘭西共和國、大正7年 (1918) 
    第5巻:亜米利加合衆国、大正7年 (1918) 
    第6巻:伊太利王国、大正7年 (1918)
● 『羅馬(ローマ)盛衰史』エドワード・ギボン著、坂本健一訳、隆文館図書、大正7年 (1918)
● 『亜歴山(アレキサンダー)遠征史』〈「興亡史論 叢書」第2巻〉、大正8年 (1919)
    アリアヌス・フラヴィウス著、坂本健一訳、興亡史論刊行會
● 『コーラン經』坂本健一訳〈「世界聖典全集」第14, 15巻 上下巻〉、大正9年 (1920)
     世界聖典全集刊行會、 昭和5年 (1930) に 改造社から復刻出版
● 『日本風俗史要』上掲書の増補改版 (331pp.)、武蔵野書院、大正13年 (1924)
● 『ムハメッド傳』〈「世界文庫」13, 14〉坂本健一著、世界文庫刊行會、大正12年 (1923)
● 『老子』〈「世界文庫」5〉坂本健一訳、世界文庫刊行會、大正13年 (1924)
● 『列子』〈「世界文庫」25, 26 上下巻〉坂本健一訳、世界文庫刊行會、大正13年 (1924)

コーラン經   
 坂本健一訳 『コーラン經』、大正9年 (1920)
『世界聖典全集』の第 14, 15巻、世界聖典全集刊行會刊

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麻謌末

坂本健 著『 麻謌末(マホメット)』博文館
見開き挿絵のひとつ(北蓮蔵 画)天馬ブラークに乗って
昇天するムハンマド(見開きの挿絵を一枚につなげてみた)

 『麻謌末』は「少年向け」とはいうものの、第1ページ目の「緒言」の初めを写してみると、漢文読み下し体、あるいは 漢字仮名まじり文で、現代人が読むには少々むずかしいかもしれません。本当に これが「少年向け」かと疑ってしまいます(フリガナは原文どおり)。

 「観(み)来たれば 古来幾多の英傑が 龍藷虎擲(りゅうじょ こてき)の偉蹟(いせき)は空しく竹帛(たくはく)の煙と銷(しょう)して、依然たる山河の舊(きゅう)形勢 徒(いたずら)に 征人(せいじん)行旅が弔往(てふおう)の涙を濺(そそ)がらしめざるは稀なり。而(しか)も尚 詩人は歌ふて曰く、英雄 回首(かうべを かへせば)(すなわち)神仙と、神たらず 仙たらず 聖賢たらざるもなお人間の英雄として 不朽の名は 千載の下(もと)に傳ふ可し、況(いはん)や 徳下を人間に布(し)き 神業(しんげふ)を霊界に建てし神仙の道、聖賢の教(おしへ)に至りては寔(まこと)に萬古 滅せざるものあり。
 然らば 彼(かの)左手(さしゅ)に捧げたる経典(アルコーラン)には天神(アラー)の福音(ふくいん)を傳へて一宗の教祖と仰がれ、右手(めて)に提(ひっさ)げし利剣(ヅル・ファカール)もて 攻伐(こうばつ)の偉業を成して 百戦の英傑と稱せられし 麻謌末(ムハメット)の如き、豈(あに)稀代の偉人ならずや。宜(うべ)なり、千三百年前 大漠を踏破せしアル・カスワ(麻謌末(ムハメット)の駱駝(らくだ))背上(はいじょう)の人は 今 空しきも、千三百年後 緑色濃きサンヂャキ・セリフ(麻謌末(ムハメット)の旗)は尚 コンスタンチノープルのモスクに翻(ひるがへ)れり。」

明治30年代の少年たちが、これを 苦もなく 読めたのでしょうか?

麻謌末

坂本健 著 『 麻謌末(マホメット)』奥付、明治 32年 (1899)
著者名が、表紙や扉では ペンネームの「坂本蠡舟(れいしゅう)」、
奥付 および巻末の広告では「坂本健」となっている。

 『 麻謌末(マホメット)』の本文からもう1節、坂本健一による講談調の伝記の語り口の一端を紹介します。(p.36-37) (アブ・タレブは、ムハンマドの叔父で養育者のアブー・ターリブのことです。)

「然(しか)れども 麻謌末(ムハメット)は衆人(しゅうじん)の刺笑嘲罵(ししょう ちょうば)をも、叔父(おじ)の諫諍(かんさう)をも顧(かへり)みず、愈(いよいよ)進みて 其(その)の所信(しょしん)を貫(つらぬ)かんとせしかば、ハシェムの一族 今は棄(す)て置く可(べ)きにあらずとて、アブ・タレブに勧(すす)めて 預言者が偶像排撃(ぐうぞう はいげき)の強暴(きゃうぼう)を制止(せいし)せしめ、若し聴かずんば 已(や)むを得ず、事(こと)を武力に訴えんと脅迫(きょうはく)せり。アブ・タレブも 始(はじめ)は 自(みずから)渠等(かれら)に對答(たいたふ)して 其(その)意を和らげしも、屡(しばしば)(きた)り請(こ)ふに及び、遂(つひ)に麻謌末(ムハメット)を見てハシェム一門の意を傳(つた)へしに、麻謌末(ムハメット)(がう)も恐れず 泰然(たいぜん)として應(こた)へて曰(いは)く、「假令(たとひ)(ひと)我右手(わが めて)に太陽(ひ)を握(にぎ)らしめ 我左手(わが ゆんで)に太陰(つき)を抱(いだ)かしむるも、我は 決して此教(この をしへ)を捨てじ」と その其(その)所信(しょしん)の確呼不抜(かっこふばつ)なる、其(その)所志の堅牢不撓(けんろうふたう)なる、到底(たうてい)動かす可からざるを見て、アブ・タレブもまた 言はざりき。」

 こうしたストーリーは、後述のイブン・イスハークとイブン・ヒシャームによる9世紀の『 預言者ムハンマド伝 』に基いているので、他の「マホメット伝」と大差ありませんが、この本はイスラームに対する西洋的偏見なしに書かれ、奇跡的伝説については伝記と切り離して 巻末に述べ、没後のイスラームの発展に至るまで、よく書かれた著作だと言えます。あまり長くないだけに 解りやすいとも言えましょう。

 上の引用文で 坂本は「教(をしへ)」と書いていますが、宗教として確立するにつれて「回々教(くわいくわいけう)」と書き、「イスラム」は「神に服従するの意」として区別しています。次第に混交させるようになりますが、「イスラム教」とは書きませんでした。後の『ムハメッド傳』では「回々教」の表記をやめ、 主として「イスラム」と書きますが、時に「イスラム教」、また「ムハメッド教」とも書いています。

 坂本健一は この『 麻謌末(マホメット)』の 26年後の 大正12年 (1923) に、ムハンマドの伝記を 大人向けに より詳しく(多少 衒学的に)書き直して( マホメット という呼称とは決別して)、『ムハメッド傳』上下2冊を「世界文庫」の第 13、14冊として出版しました(世界文庫刊行會)。

 ところで、日本における最初の文庫本は、昭和2年 (1927) 創刊の「岩波文庫」であると 通常 言われていますが、本当は それより早く、前回 紹介した 松宮春一郎 (1875ー1933) が 大正時代に創刊した「世界文庫」であるらしい。いずれも ドイツの「レクラム文庫」に範をとった 教養主義の文庫本です。日本では それを 出版社名で「レクラム文庫」と呼んでいますが、ドイツでの正しい名前は、レクラム出版社の「UNIVERSAL-BIBLIOTHEK(世界文庫)」です。松宮は それに倣って「世界文庫」と名付けたのでしょう。

ムハメッド   ムハメッド

坂本健一著 『 ムハメッド傳 』上巻の表紙と扉、大正 12年 (1923)
ペーパーバック、「世界文庫」13.世界文庫刊行會、定価 50銭
文庫本なので、『 麻謌末 』の半分の大きさで、172PP.
装幀は 文庫全部 同じ。小口と下部はアンカット、挿絵は無い。

 坂本健一訳の『コーラン經』を含む『 世界聖典全集 』は、それより早く 大正9(1920)~12年 (1923) に 同じ出版者(松宮春一郎)が刊行した A5判 ハードカヴァーの上製本で、編集兼発行者は「世界聖典全集刊行會」としていました。それを、文庫本を創刊するに際して、「世界文庫刊行會」という名称に変えたのです。
 この『ムハメッド傳』上巻は「世界文庫」の 13冊目となっていて、大正 12年 11月 20日発行となっています。巻末の広告では、既刊は まだ7冊だったということですから、ペーパーバックの文庫判「世界文庫」の創刊は、この大正 12年 (1923) だったと考えられます(昭和2年 (1927) に創刊の「岩波文庫」よりも4年早い)。坂本健一は さらに大正 13年 (1924) に、この「世界文庫」で 『老子』や『列士』(上下) の翻訳の巻も出しています。ずいぶん多才な人でした。

 松宮春一郎の「世界文庫」は 大正時代のものであって、昭和の10、20年代に出た 弘文堂書房の新書判「世界文庫」は、まったく別物です。
 あとでわかりましたが、これより もっと早く 大正3年 (1914) に 赤城正蔵 (1890-1915、26歳で夭折) が創刊して同年中に 108冊まで出した「アカギ叢書」というのが、新書的な文庫本(150x96 mm)で、やはり「レクラム文庫」に範をとったようです。これが、日本で最初の文庫本かと思いましたが、「文庫」とは銘打っていません。
 さらに、『文庫—そのすべて』の著者でもある矢口進也氏によれば、明治19年創業の冨山房(ふざんぼう)が 明治36年 (1903) に創刊した『 袖珍(しゅうちん)名著文庫 』が、明治の終わりの 1912年までに50冊を刊行したそうなので、これが名実ともに 最初の「文庫本」だったようです。



池元半之助 著『 マホメットの戦争主義 』

坂本蠡舟の『 麻謌末(マホメット)』に遅れること4年の明治 36年 (1903) に、池元半之助(呦鹿庵主人)が『マホメットの戦争主義』(春山房)という本を出版しました。ヨーロッパの偏見に基づいたものと言われます。偉人伝として、日蓮との相似性を強調し、最後のページでカーライルを引用しています。入手困難ですが、これと、次の明治38年『怪傑マホメット』、さらに明治 41年の松本赳『マホメット言行録』のいずれも、国立国会図書館のデジタル・コレクションで読めます。 

戦争主義

呦鹿庵主人 (池元半之助) 著『マホメットの戦争主義』扉
(国会図書館の デジタル・コレクションより)
明治 36年 (1903) 春山房, B6判, 230pp. 定価 35銭

『マホメットの戦争主義』の「緒言」には、

一. 本編は主にコーラン Koran に由りて マホメットの片影を捉へむことを希企したり。
一. 本編の目的は 滔々たる現代の平凡主義を警鐘せむ為に在り。
    左れば 編中の大部分は、其の折伏主義を鼓吹するに費したり。

とあり、また「はしがき」の「マホメットを草し終るの日」の2ページ目には

「平和は 断じて実在界に於て 何の勢力をも有せざる也。威権は 凡俗を圧し、気魄は 地平線上に 厳として耀けり。古住今来、毫も異なる莫し。平和を云うを止めよ。汝は弱者なれば也。是れ 吾人が恒に繰返して已まざるの信條也。 (中略) 極東の悪土に、日蓮が 戦争主義を鼓吹するの餘儀なかりしもの、詢に已むを得ざりき也。吾人は此点に於て 亜刺比亜の一大精華(アラブツール)たる マホメットの折伏主義に多大の代価を拂わざむば 非らざる也。   明治36年3月9日 池本呦鹿庵


と書かれています。池元半之助というのは、よほど好戦的な「日蓮主義者」だったのでしょう。





忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん) 『怪傑マホメット』

坂本蠡舟の『 麻謌末 』の次に出版された 注目すべき「マホメット伝」は、忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん)によって書かれ、明治38年 (1905) に井洌堂(中山孝之助)から出た、小説の題名のような『怪傑マホメット』です。

怪傑   怪傑
忽滑谷快天著 『 怪傑マホメット 』井洌堂、明治 38年 (1905)
紙表紙と 奥付、ペーパーバック、A5判、230PP、定価 50銭

 忽滑谷 快天 (1867-1934) は、伊東忠太と同じ慶応3年の生まれの仏教学者で、曹洞宗の僧侶でもありました。曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学」と呼ばれる禅道思想を確立したそうです。

怪傑   怪傑

忽滑谷快天 著『 怪傑マホメット 』 井洌堂
口絵にムハンマドを描いているが、内部に挿絵は無い。

 坂本健一の 『 麻謌末 』と同じように、この本も 口絵に ムハンマドの像を 大きく載せていますが(作者不詳)、これ以後に書かれた「マホメット伝」には、まったくありません。また『 怪傑マホメット 』という書名の意味するところは、次のように「序論」に書かれています。

「渠(かれ)は 無学の学者、動物的預言者、怯懦(きょうだ)なる勇士、慈悲なる殺人者、一神教的 迷信者、一国の君主たる貧民、王国の建設者たる法師、天使と直接に談話を交ふる人間である。一言に之を約すれば、渠(かれ)は神性と動物性を兼有した怪傑である。」

つまり、仏教やキリスト教からは捉えがたい、矛盾に満ちた宗教的、政治的人間像として、ムハンマドを描こうとしているわけです。といっても 後述のように、他の 「マホメット伝」と同じ資料に基づいているので、特別に変わった生涯を描いているわけではありません。むしろ 読み易い文体でバランスのとれた記述をし、仏教の僧侶であるにもかかわらず ムハンマドを高く評価しているのが 本書の特質です。



エミルデルマンゲム 著『 マホメット傳 』

マホメット

エミル・デルマンゲム 著、古野清人 訳 『マホメット傳 』
昭和 15年 (1940) 白水社, フランス装, B6判, 446pp. 定価2円

 大正時代には、口村佶郎著『野聖マホメット』という本が大正12年 (1923) に上田屋出版部から出たそうですが、筆者未見です。
 ずっと後の昭和10年代になると、立て続けに マホメット伝やイスラーム関係の本が出版されますが、ここでは一冊の翻訳書だけを採り上げておきましょう。エミル・デルマンゲム (Émile Dermenghem, 1892 -1971) 著、古野清人(ふるの きよと)訳の『マホメット傳』(La Vie de Mahomet) です。原著は 1920年の Collection Le Roman des Grandes Existences の1巻です。エミル・デルマンゲムはイスラームの専門家というわけではなく、フランスの古文書学者にしてジャーナリストだったそうです。研究書でもない、いわば読み物としての「マホメット伝」まで翻訳出版されたというのは、日本のアジア進出の反映でしょう。
 訳者の 古野清人 は、大正15年 (1926) に東京帝国大学を出た宗教社会学者で、日本宗教学会の会長も務めましたが、彼もまた 特にイスラームを専攻したわけではなく、宗教社会学研究の一環として この本を翻訳したようです。




大川周明著『 マホメット伝 』(遺作)

 大川周明は『古蘭』を翻訳・執筆したあと、「マホメット伝」を書きました。しかし それが遺稿として印刷・刊行されたのは ずっとあとで、昭和37年 (1962)に 全集の第3巻に収録されました。このもととなったのは『回教概論』の第3章「マホメット」で、3節から成るマホメット伝でした。『マホメット伝』の第1章「アラビアとアラビア人」は、ほとんど『回教概論』の第2章「アラビア及びアラビア人」の再録です。したがって、『マホメット伝』の執筆時期は『回教概論』の昭和 17年 (1942) より後ということになります。

大川周明

大川周明 著『 マホメット伝 』新版 ジャケット 平成 29年 (2011)
書肆心水、偶像的な表紙絵や挿絵は一切無い。376pp. 4,700円

 のちの平成 23年 (2011) に、『文語版 古蘭』を出した書肆心水から 単行本として再刊されました。この新版『 マホメット伝 』は新漢字、現代仮名遣いにしているので、たいへん読みやすくなりました。内容的には「全集版」とまったく同じです。これより70年以上前の 坂本健の『 麻謌末(マホメット)』と、章立てを比較してみましょう。

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坂本健の『 麻謌末 』 目次| ■ 大川周明の『マホメット伝 』 目次
第一 亜剌比亜國(アラビアこく) |  第1章 アラビア及びアラビア人
第二 市人麻謌末(いちびと ムハメット |  第2章 マホメットの祖父と父、その青年時代
第三 ヘウの洞窟(へうの いはや) |  第3章 宗教、社会改革運動の開始
第四 黙加の預言者(メッカの よげんしゃ) |  第4章 聖遷とメディナとメッカの対立
第五 預言者の市(メヂナート・アル・ナビ) |  第5章 メディナとメッカの死闘続く
第六 アブ・ソフィアン |  第6章 政治家マホメットと結婚
第七 教國(をしへの くに) |  第7章 対外使節の派遣とメッカの征服
第八 入滅(にふめつ) |  第8章 メッカ支配者アブー・スフィヤーン
第九 神蹟(しんせき) |      とイブラーヒームの死
第十 人と教(ひとと をしへ) |  第9章 メッカ支配と聖遷十年(631年)
第十一 餘光(のちの ひかり) |  第10章 別離の巡礼とマホメットの死




井筒俊彦著『 マホメット 』(アテネ文庫)

 戦後になると、マホメット伝は各種出版されます。昭和23年 (1948) に弘文堂が創刊した「アテネ文庫」はアカデミックな教養路線をとり、現代の「新書」のように学者たちに執筆依頼をしました。38歳の井筒俊彦がアテネ文庫に書き下ろした『マホメット』が出版されたのは、大川周明の『マホメット伝』が遺作として全集に収録されて出版されるより 10年前ですが、現在も「講談社学術文庫」の一冊 (1989) で 読まれています。また、「中公文庫 BIBLIO」の『イスラーム生誕』(1990) の第1部「ムハンマド伝」として収録されてもいます。

井筒

井筒俊彦 著 『マホメット』 昭和 27年 (1952)
弘文堂、アテネ文庫、80pp. 定価 30円
表紙と背表紙では、井筒俊彦 が 井筒利彦 と誤植されている

 後に世界的イスラーム学者、思想家となる井筒俊彦 (1914 -93) による、わずか 80ページの「若書き」ながら 名作とされる「マホメット伝」で、戦後の解放感のなかで一気に書いたのではないでしょうか。9、10ページに、次のように心情を吐露しています。

「マホメットは かつて私の青春の血潮を 妖しく湧き立たせた異常な人物だ。人生の最も華やかなるべき一時期を 私は彼と共に過した。彼の面影は 至るところ 私についてまはって 片時も私を放さなかった。第一に 生活の環境が それを私に強要したのだった。朝起きてから 夜 床に就くまで アラビア語を読み、アラビア語を喋り、アラビア語を教え、机に向かへば 古いアラビア語の詩集やコーランを繙(ひもと)くといふ、今にして憶(おも)へば まるで夢のような日々を送ってゐた その頃の私に、どうしてマホメットのことを 忘れる暇などあり得よう。」
「歴史的学問研究は 飽くまで客観的精神に終始しなければならぬ。それは 自分にもよく分ってはゐるが、しかし冷たい客観的な態度でマホメットを取扱ふことは 私には到底できさうもない。自分の心臓の血が 直接に流れ通はぬやうなマホメット像は 私には描けない。だから いっそ思ひきって、胸中に群がり寄せて来る 乱れ紛れた形象の誘いに身を委せて見よう。」

といった、青春の たぎる思いで書き綴った、若きイスラーム学者による「ムハンマド伝」です。この実績によって、井筒俊彦は 岩波文庫から、『コーラン』の現代語訳を 依頼されたのでしょう。



 以上のすべての「マホメット伝」が一番の基にしているのは、下記の、イブン・イスハークとイブン・ヒシャームによる9世紀の『 預言者ムハンマド伝 』ですから、どれも内容的には 大差ないわけです。 この邦訳が出る前は、英訳や仏訳で読まれたことでしょうが。

『 預言者ムハンマド伝 』(イスラーム原典叢書)

”預言者"

『 預言者ムハンマド伝 』第1巻の扉 平成 22年 (2010)
「イスラーム原典叢書」 岩波書店、全4巻、各 550pp 前後, 1万円前後

 これは 最も古い「ムハンマド伝」です。この『 預言者ムハンマド伝 』は、ムハンマドの没後1世紀頃に イブン・イスハーク (C.704 -767) が「遠征」ないし「戦記」と訳される『マガーズィー』として著し、のちにイブン・ヒシャーム (?- 833) が校訂して注釈を加え、伝記を中心に編集し直したものです。その後書かれた「ムハンマド伝」は、すべて この本を典拠にしました。
 これをアラビア語原典から、後藤明、医王秀行、高田庚一、高野太輔の諸氏が 10年がかりで和訳して、平成22 ー24年 (2010- 2012) に 岩波書店から「イスラーム原典叢書」全12巻のうちの4冊として出版しました。本文が3冊で、注釈が第4巻に纏められています。今に 岩波文庫にはいれば、一般の人も手に取りやすくなることでしょう。下に目次を掲げておきます。

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   『 預言者ムハンマド伝 』( イスラーム原典叢書、岩波書店 ) 目次   
第1章 ムハンマドの父祖の系譜 第14章 バドルの戦
第2章 イエメンの歴史 第15章 バドルの戦の情報とその後の出来事
第3章 ムハンマドの父祖の系譜(つづき) 第16章 ウフドの戦
第4章 メッカの歴史 第17章 ウフドの戦に続く出来事
第5章 召命以前のムハンマド 第18章 塹壕の戦とクライザ族
第6章 メッカでの布教 第19章 ヒジュラ歴6年の出来事
第7章 激しくなる迫害 第20章 フダイビヤの和約とハイバル親征
第8章 夜の旅と昇天 第21章 成就の小巡礼とムータ遠征
第9章 移住の準備 第22章 メッカ征服
第10章 移住の始まり 第23章 フナインの戦とターイフ包囲
第11章 使徒の移住と礼拝所の建設 第24章 タブーク親征とサキーフ族の改宗
第12章 ユダヤ教とキリスト教 第25章 使節の往来と別れの巡礼
第13章 戦いのはじまり 第26章 親征と遠征の一覧
第27章 ムハンマドの死
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 もちろん 原著者のイブン・イスハークも、それを伝記として編纂したイブン・ヒシャームも、ムハンマド (c.570-632) の100年以上あとの生まれなので、直接ムハンマドに会ったり 話を聞いたわけではありません。それでもムハンマドの人物や事績、戦争や事件について 伝承していた人は少なくなかったし、文章にまとめないまでも、学者的に研究している人たちもいたので、それらを蒐集して「歴史的に(伝記的に)」整理して記述した、ほとんど唯一の文書がこれです。

 ところで どの「マホメット伝」を読んでも不思議なのは、ムハンマドが『クルアーン』(コーラン)を朗誦して神への信仰を呼びかける、といった記述が出てくることです。『クルアーン』はムハンマドの没後に編纂されて本になったものですから、ムハンマド自身がそれを読むことなど できないはずです。このことも、やはりイブン・イスハークとイブン・ヒシャームによる『 預言者ムハンマド伝 』に基いているのだということがわかりました。岩波版の第1巻、メッカ時代の第9章「移住の準備」を見るだけで、p.453、p.459、p.471などに、「使徒はイスラムを説き、コーランを朗誦した」というような記述が 頻繁に出てきます。もっと多くの解説書などを読めば、その記述の妥当性が解るのかもしれませんが、今のところ 私には 謎のままです。

*     *     *

 さて この本は、上述のように 岩波書店の「イスラーム原典叢書」の中の4冊ですが、後藤明の「訳者あとがき」でも、医王秀行および 高田庚一、森山央朗、高野太輔の「解説」でも、「イスラーム」ではなく「イスラム」と表記しています。私がアンリ・スチールランの本を翻訳した時には、用語は平凡社の『イスラム事典』に基づいたので『イスラムの建築文化』という邦題にしましたし、本文でも すべて「イスラム」と書きました。その後 岩波書店から もっと詳細な『岩波イスラーム辞典』が出版されて、世の中では(特に専門家の間では)「イスラム」よりも「イスラーム」の表記が一般的になりました。そこで私も イスラム建築の概説書(私家版)を書いた時には、題名も 本文中も すべて「イスラーム」に統一したのです。この HPも、「イスラム」を すべて「イスラーム」に修正しました。ところが イスラーム史の専門家にも「イスラム」と書き続けている方々がいるのを見て、少々複雑な気持ちになります。私も本当は「イスラム」のほうが良かったと思っている人間です。日本語として 言いやすいし、書きやすいし、一般の人の多くも 一般ジャーナリズムも、「イスラム」と言いならわしているからです。私は「イスラーム」に乗り換えたことを、少々後悔も しているのですが、いまさら 如何ともなりません。


 最後に、預言者ムハンマドの「夜の旅(イスラー)と昇天(ミラージュ)」の伝説を描いた 15世紀のヘラート(アフガニスタンの古都)の古写本を複写・収録した 細密画集を紹介しておきましょう。『 マホメットの奇跡の旅(ミラージュ・ナーメ)』 で、ニューヨークのジョージ・ブラジラー書房が 1977年に出版したものです("THE MIRACULOUS JOURNEY OF MAHOMET (Miràj Nàmeh)" 1977, George Braziller, New York )。

ミラージュ
ムハンマドの昇天(ミラージュ)を描いた細密画集

 ロンドン・ムスリム学院・院長の M・A・ザキー・バダウィーは、拙訳書『 楽園のデザイン(イスラムの庭園文化)』の序文に、次のように書いています。

「もともと 芸術は宗教の宣揚として発生した。詩歌管弦、彫刻や建築は、ことごとく人類の宗教生活に 源泉をもっている。イスラム教は そうした芸術的能力を育んだばかりでなく、その方向付けにも影響を及ぼした。それは、天上に属すべき権威を 彫像に与えてしまうような旧習に 人びとが陥らぬよう、生きものの姿を 石の上に、(識者によっては画布の上にさえも)写すことを禁じたのである。

 こうしてイスラームでは偶像的表現を極力排し、とりわけイスラームの開祖 ムハンマドの姿は描かないことを原則としました。ところが、このフランス国立図書館所蔵の古写本『ミラージュ・ナーメ』では、全ページに ムハンマドが登場するどころか、その顔にヴェールも かけられていません。偶像表現の禁止というのは 実は それほどの禁忌ではなく、イスラーム初期においては 生類も ムハンマドも 絵にされました。まだイスラームが十分に理解されていない時代に描かれたものは 無理もないと言えます。むしろ中国においてのほうが、偶像表現の禁忌を よく守ってきた印象を受けます。清真寺の中には偶像ひとつなく、仏教や道教の寺院と違って、まったく彫像が無いので、常にガランとした印象を与えます。

( 2022 /11/ 01 )



< 本の仕様 >
 ●『 麻謌末(マホメット)』坂本蠡舟(健)著、博文館、明治32年 (1899)
   少年向けの「世界歴史譚」シリーズ、全36冊の内の第6編、
   A5判 (22.5 ×15 ×0.8 cm)、ペーパーバック、146ページ、定価13銭。
   カラー表紙絵、見開きモノクロ挿絵9点(北 蓮蔵 画)本文は酸性紙で 劣化。

 ●『 ムハメッド傳 』坂本健一 著、大正12年 (1923)定価50銭
   ペーパーバック、文庫判 (16 ×11 ×1 cm)、「世界文庫」13.世界文庫刊行會
   文庫本なので 『麻謌末(マホメット)』の半分の大きさで、172ページ。
   装幀は、文庫全部同じ。小口と下部はアンカット。挿絵は無い。

 ●『 怪傑マホメット 』 忽滑谷快天(ぬかりや かいてん)著、井洌堂(山中孝之助)
   茶色紙表紙のペーパーバック、22.5 ×15 ×1.2 cm、230ページ、定価50銭。
   20世紀初めの本、明治38年 (1905)、口絵モノクロ1点のみ。
   この頃の本は酸性紙を用いているので、年月とともに黄ばみ、劣化して破れる。

 ●『マホメット』井筒俊彦著、昭和27年 (1952) アテネ文庫、弘文堂、定価30円。
   文庫判 14.8 ×10.3 ㎝、ペーパーバック、80ページ、図版なし。


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