『 麻謌末(マホメット)』 |
「古書の愉しみ」の第56回は 予告したように、前回の「古書の愉しみ」で採り上げた「クルアーン」の最初の邦訳者、坂本蠡舟(健一)による『 麻謌末(マホメット)』で、明治32年 (1899) に出版された本です。しかし その頃には、マホメットのことが すでにある程度 読書界に知られていました。19世紀のイギリスの著作家、トマス・カーライル(1795-1881、寛政7年-明治14年) の代表作、『英雄論』 (1841、天保12年)が明治26年 (1893) に 石田羊一郎と 大屋八十八郎の翻訳で『英雄崇拝論』として 丸善から出版されていたからです。明治31年 (1898) には 詩人の土井晩翠による翻訳も『英雄論』として 春陽堂から出版され、大いに人気を博したので、その後も 同書の多くの訳書が出版されました。原題は "Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History"(英雄、英雄崇拝、および 歴史上の 英雄的行為)で、特に「崇拝論」というわけではないので、「英雄論」の邦題のほうが 適切と思います。さすがに戦後は 忘れられたようになっていますが、 老田三郎(おいた さぶろう)訳の『英雄崇拝論』が、岩波文庫(昭和24年 初版)で入手できます。
(左)カアライル著 『英雄崇拝論』石田羊一郎・大屋八十八郎 訳
西洋において、中東に発したイスラーム勢力は「サラセン帝国」と呼ばれ、その勢力がスペインに「後ウマイヤ朝」を建て、一時はフランスからウィーンにま攻め込んだので、それに脅威を感じたヨーロッパのキリスト教国は 彼らを敵視し、ムハンマドを悪魔のように見なしました。しかしカーライルは そうした偏見を打破し、宗教的偉人として 公平な目でムハンマドを描きました。これによって明治の日本人は、イスラームとムハンマドを 西洋的偏見から離れて、「時代の救済者」たる「英雄」として 心に留めたのでした。カーライルは 講演の最初のほうで、次のように言っています。(老田三郎訳、岩波文庫、p.65)
次いで 偉人英雄についての一般的見解を述べたあと、カーライルは ムハンマドの生涯を語り、その事績を称賛していますが、『クルアーン』だけは、その繰り返しの多い記述に辟易し、「粗本、未熟にして退屈な紛乱せる混雑物」とまで言っています(p.94) 。キリスト教の『聖書』と比較すれば、慣れないだけに、確かに そう思った西洋人も多かったことでしょう。
これで、そのカーライルの本の影響を受けた、坂本健一の著作『 麻謌末(マホメット) 』の話になるかというと、驚くべきことに それよりも ずっと早く、何と明治9年 (1876) に、マホメット伝の翻訳が 和本で出版されていました。林董(はやし ただす)の訳述による『 馬哈黙(マホメット)傳 』です。まだ日本でイスラームが一般に知られるよりも はるか昔のことで、カーライルの『英雄論』も まだ邦訳されていなかった時代です。
林董 訳述『 馬哈黙(マホメット)伝 』和本の表紙(ウェブサイトより) 林 董 (1850-1913) というのは 明治の外交官・政治家で、慶応2年 (1866) から2年間弱 幕府留学生としてイギリスに留学し、明治6年 (1873) からは2年間近く 岩倉使節団に 二等書記官として加わって、英語に堪能だったようです。前々回の東海散士こと 柴四朗より3年早い嘉永3年(1850)に下総佐倉藩に生まれ、幕臣として柴四朗と同じくして 新政府と戊辰戦争を戦い(北海道、五稜郭の戦い)、捕虜となったものの 後に許され、明治政府に仕えて 伯爵、外務大臣にまで出世した人です。「工部大学校」の設立にも大きな役割を果たしたそうですが、どういうわけか、26歳の明治9年 (1876) に、日本最古の「マホメット伝」を 訳述して出版しているのです。 この『 馬哈黙(マホメット)傳 』は、英国の東洋学者 ハンフリー・プリドー (Charles Leslie Humphrey Prideaux, 1648-1724) による「Life of Mahomet」(1697、元禄10年) を底本としています。林は 柴四朗と同じく英語に堪能だったわけですが、なぜ これを翻訳したのかは、不明です。彼の回顧録『後は昔の記 他 ー 林董 回顧録』(平凡社「東洋文庫」173)には、この本のことは何も書かれていないので(巻末の年譜にさえも)、あまり熱心にやった仕事、記憶に残る訳業ではなかったのでしょう。(国立国会図書館のデジタル・コレクションで読めます。) 本は「正編」と「附録巻」の2冊から成り、附録巻は 林薫の編纂のもと 深間内 基(ふかまうち もとい)が「欧州諸大家が 回教及びその教祖を論評せしもの」を翻訳したもので、今から 150年近く前の 明治9年 (1876) に、東京の明教社(干河岸 貫一(ひがし かんいち)主催)によって出版されました。この本の原題は『マホメットの生涯に明白に表れる 真の詐欺的本性 (The True Nature of Imposture Fully Display'd in the Life of Mahomet) 』といい、ムハンマドを徹底的に批判・攻撃しているもので、カーライルも この書などを 今や「排撃すべきもの」として 否定しています (p.95)。
林董 訳述『 馬哈黙(マホメット)伝 』扉と本文(ウェブサイトより) 杉田英明の『日本人の中東発見』(1995,東京大学出版会, p.145-6 ) によれば、この本は 浄土真宗の僧・島地黙雷(しまじ もくらい 1838-1911)が「緒教ノ概略ヲ遍ク伺察」するために 西本願寺から派遣され、海外を歴訪したさいに入手した プリドーの『ムハンマド伝』を、林董が口述で翻訳し、島地の欧州視察に同行した僧侶・赤松連城 (1841ー1919) が 筆記したものです。英国のノリッジ大僧正 (Dean) だったプリドーの この著作は、デルブロ (B. D'Herbelot, 1625ー95) の『東洋全書』などと並ぶ、きわめて偏向した「キリスト教的不寛容の古典的見本」として、今日なお その名を知られている書物だ ということです。
坂本蠡舟 (健) 著『 麻謌末(マホメット)』表紙、明治 32年 (1899)
日本人で最初にムハンマド伝を書いたのは、前述のように、「クルアーン」全編を『コーラン經』として最初に邦訳した 坂本健一で、『 麻謌末(マホメット)』と題する、今から 123年前の本です。「古書の愉しみ」として期待するような立派な本というわけではなく、むしろ簡素なペーパーバックの、少年向き「世界歴史譚」シリーズ(博文館)の一冊です。博文館というのは 明治20年 (1887) 創業の老舗出版社で、その名は伊藤博文に由来します。明治時代には日本で最大の出版社となり、大衆向けの総合雑誌『太陽』や『新青年』を発行したことでも知られています。
各巻とも 表紙に木口木版で 多色刷りの絵を載せるのを原則としていたので、『 麻謌末』の巻も そうしたのですが、ムハンマドの顔は 描かずもがなだったでしょう。日本で出版された「マホメット伝」で、表紙に 偶像的な ムハンマドの絵を掲げているのは これだけです。内部の挿絵にも ムハンマドが描かれています。北 蓮蔵は表紙絵を、「左手にコーラン、右手に剣」という 西洋人のステレオタイプで描きました。ヨーロッパ人による「剣かコーランか」という俗諺は広く世界に流布していて、のちに 大川周明は『安楽の門』の中で それをもじって、「かように 共産主義という新宗教が、全世界にむかって「剣か資本論か」と迫り、破竹の勢で四方を風靡しつつある・・」などと書いています (p.71)
坂本蠡舟 著『麻謌末』の 劈頭ページ, 明治 32年 (1899)
天上の神使ガブリェール 天神の聖意をもたらして降り、
著者の坂本健一という人は 生年不明ですが、「ウィキペディア」には 「1898年に東京帝国大学史学科を卒業。北京 京師大学堂(現・北京大学)への7年間の出向を経て著述業に従事」とあります。「出向」というのは、日中教育文化交流として日本人の学者たちが大挙して招かれ、中国語を学習するとともに 教員として勤めたようです。坂本は その在中国時代の中国哲学研究によって、後に老子や列子を 中国語から翻訳します(「世界文庫」の3冊)。
● 『麻謌末(マホメット)』〈「世界歴史譚」第6編〉坂本蠡舟著、博文館、明治32年 (1899)
坂本健 著『 麻謌末(マホメット)』博文館 『麻謌末』は「少年向け」とはいうものの、第1ページ目の「緒言」の初めを写してみると、漢文読み下し体、あるいは 漢字仮名まじり文で、現代人が読むには少々むずかしいかもしれません。本当に これが「少年向け」かと疑ってしまいます(フリガナは原文どおり)。
明治30年代の少年たちが、これを 苦もなく 読めたのでしょうか?
坂本健 著 『 麻謌末(マホメット)』奥付、明治 32年 (1899) 『 麻謌末(マホメット)』の本文からもう1節、坂本健一による講談調の伝記の語り口の一端を紹介します。(p.36-37) (アブ・タレブは、ムハンマドの叔父で養育者のアブー・ターリブのことです。)
こうしたストーリーは、後述のイブン・イスハークとイブン・ヒシャームによる9世紀の『 預言者ムハンマド伝 』に基いているので、他の「マホメット伝」と大差ありませんが、この本はイスラームに対する西洋的偏見なしに書かれ、奇跡的伝説については伝記と切り離して 巻末に述べ、没後のイスラームの発展に至るまで、よく書かれた著作だと言えます。あまり長くないだけに 解りやすいとも言えましょう。 上の引用文で 坂本は「教(をしへ)」と書いていますが、宗教として確立するにつれて「回々教(くわいくわいけう)」と書き、「イスラム」は「神に服従するの意」として区別しています。次第に混交させるようになりますが、「イスラム教」とは書きませんでした。後の『ムハメッド傳』では「回々教」の表記をやめ、 主として「イスラム」と書きますが、時に「イスラム教」、また「ムハメッド教」とも書いています。 坂本健一は この『 麻謌末(マホメット)』の 26年後の 大正12年 (1923) に、ムハンマドの伝記を 大人向けに より詳しく(多少 衒学的に)書き直して( マホメット という呼称とは決別して)、『ムハメッド傳』上下2冊を「世界文庫」の第 13、14冊として出版しました(世界文庫刊行會)。 ところで、日本における最初の文庫本は、昭和2年 (1927) 創刊の「岩波文庫」であると 通常 言われていますが、本当は それより早く、前回 紹介した 松宮春一郎 (1875ー1933) が 大正時代に創刊した「世界文庫」であるらしい。いずれも ドイツの「レクラム文庫」に範をとった 教養主義の文庫本です。日本では それを 出版社名で「レクラム文庫」と呼んでいますが、ドイツでの正しい名前は、レクラム出版社の「UNIVERSAL-BIBLIOTHEK(世界文庫)」です。松宮は それに倣って「世界文庫」と名付けたのでしょう。
坂本健一著 『 ムハメッド傳 』上巻の表紙と扉、大正 12年 (1923)
坂本健一訳の『コーラン經』を含む『 世界聖典全集 』は、それより早く 大正9(1920)~12年 (1923) に 同じ出版者(松宮春一郎)が刊行した A5判 ハードカヴァーの上製本で、編集兼発行者は「世界聖典全集刊行會」としていました。それを、文庫本を創刊するに際して、「世界文庫刊行會」という名称に変えたのです。
松宮春一郎の「世界文庫」は 大正時代のものであって、昭和の10、20年代に出た 弘文堂書房の新書判「世界文庫」は、まったく別物です。
呦鹿庵主人 (池元半之助) 著『マホメットの戦争主義』扉 『マホメットの戦争主義』の「緒言」には、 一. 本編は主にコーラン Koran に由りて マホメットの片影を捉へむことを希企したり。 とあり、また「はしがき」の「マホメットを草し終るの日」の2ページ目には 「平和は 断じて実在界に於て 何の勢力をも有せざる也。威権は 凡俗を圧し、気魄は 地平線上に 厳として耀けり。古住今来、毫も異なる莫し。平和を云うを止めよ。汝は弱者なれば也。是れ 吾人が恒に繰返して已まざるの信條也。 (中略) 極東の悪土に、日蓮が 戦争主義を鼓吹するの餘儀なかりしもの、詢に已むを得ざりき也。吾人は此点に於て 亜刺比亜の一大精華(アラブツール)たる マホメットの折伏主義に多大の代価を拂わざむば 非らざる也。 明治36年3月9日 池本呦鹿庵 と書かれています。池元半之助というのは、よほど好戦的な「日蓮主義者」だったのでしょう。
坂本蠡舟の『 麻謌末 』の次に出版された 注目すべき「マホメット伝」は、忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん)によって書かれ、明治38年 (1905) に井洌堂(中山孝之助)から出た、小説の題名のような『怪傑マホメット』です。
忽滑谷 快天 (1867-1934) は、伊東忠太と同じ慶応3年の生まれの仏教学者で、曹洞宗の僧侶でもありました。曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学」と呼ばれる禅道思想を確立したそうです。
忽滑谷快天 著『 怪傑マホメット 』 井洌堂 坂本健一の 『 麻謌末 』と同じように、この本も 口絵に ムハンマドの像を 大きく載せていますが(作者不詳)、これ以後に書かれた「マホメット伝」には、まったくありません。また『 怪傑マホメット 』という書名の意味するところは、次のように「序論」に書かれています。
「渠(かれ)は 無学の学者、動物的預言者、怯懦(きょうだ)なる勇士、慈悲なる殺人者、一神教的 迷信者、一国の君主たる貧民、王国の建設者たる法師、天使と直接に談話を交ふる人間である。一言に之を約すれば、渠(かれ)は神性と動物性を兼有した怪傑である。」
つまり、仏教やキリスト教からは捉えがたい、矛盾に満ちた宗教的、政治的人間像として、ムハンマドを描こうとしているわけです。といっても 後述のように、他の 「マホメット伝」と同じ資料に基づいているので、特別に変わった生涯を描いているわけではありません。むしろ 読み易い文体でバランスのとれた記述をし、仏教の僧侶であるにもかかわらず ムハンマドを高く評価しているのが 本書の特質です。
エミル・デルマンゲム 著、古野清人 訳 『マホメット傳 』
大正時代には、口村佶郎著『野聖マホメット』という本が大正12年 (1923) に上田屋出版部から出たそうですが、筆者未見です。 大川周明は『古蘭』を翻訳・執筆したあと、「マホメット伝」を書きました。しかし それが遺稿として印刷・刊行されたのは ずっとあとで、昭和37年 (1962)に 全集の第3巻に収録されました。このもととなったのは『回教概論』の第3章「マホメット」で、3節から成るマホメット伝でした。『マホメット伝』の第1章「アラビアとアラビア人」は、ほとんど『回教概論』の第2章「アラビア及びアラビア人」の再録です。したがって、『マホメット伝』の執筆時期は『回教概論』の昭和 17年 (1942) より後ということになります。
大川周明 著『 マホメット伝 』新版 ジャケット 平成 29年 (2011) のちの平成 23年 (2011) に、『文語版 古蘭』を出した書肆心水から 単行本として再刊されました。この新版『 マホメット伝 』は新漢字、現代仮名遣いにしているので、たいへん読みやすくなりました。内容的には「全集版」とまったく同じです。これより70年以上前の 坂本健の『 麻謌末(マホメット)』と、章立てを比較してみましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
戦後になると、マホメット伝は各種出版されます。昭和23年 (1948) に弘文堂が創刊した「アテネ文庫」はアカデミックな教養路線をとり、現代の「新書」のように学者たちに執筆依頼をしました。38歳の井筒俊彦がアテネ文庫に書き下ろした『マホメット』が出版されたのは、大川周明の『マホメット伝』が遺作として全集に収録されて出版されるより 10年前ですが、現在も「講談社学術文庫」の一冊 (1989) で 読まれています。また、「中公文庫 BIBLIO」の『イスラーム生誕』(1990) の第1部「ムハンマド伝」として収録されてもいます。
井筒俊彦 著 『マホメット』 昭和 27年 (1952) 後に世界的イスラーム学者、思想家となる井筒俊彦 (1914 -93) による、わずか 80ページの「若書き」ながら 名作とされる「マホメット伝」で、戦後の解放感のなかで一気に書いたのではないでしょうか。9、10ページに、次のように心情を吐露しています。
「マホメットは かつて私の青春の血潮を 妖しく湧き立たせた異常な人物だ。人生の最も華やかなるべき一時期を 私は彼と共に過した。彼の面影は 至るところ 私についてまはって 片時も私を放さなかった。第一に 生活の環境が それを私に強要したのだった。朝起きてから 夜 床に就くまで アラビア語を読み、アラビア語を喋り、アラビア語を教え、机に向かへば 古いアラビア語の詩集やコーランを繙(ひもと)くといふ、今にして憶(おも)へば まるで夢のような日々を送ってゐた その頃の私に、どうしてマホメットのことを 忘れる暇などあり得よう。」 といった、青春の たぎる思いで書き綴った、若きイスラーム学者による「ムハンマド伝」です。この実績によって、井筒俊彦は 岩波文庫から、『コーラン』の現代語訳を 依頼されたのでしょう。
『 預言者ムハンマド伝 』第1巻の扉 平成 22年 (2010)
これは 最も古い「ムハンマド伝」です。この『 預言者ムハンマド伝 』は、ムハンマドの没後1世紀頃に イブン・イスハーク (C.704 -767) が「遠征」ないし「戦記」と訳される『マガーズィー』として著し、のちにイブン・ヒシャーム (?- 833) が校訂して注釈を加え、伝記を中心に編集し直したものです。その後書かれた「ムハンマド伝」は、すべて この本を典拠にしました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もちろん 原著者のイブン・イスハークも、それを伝記として編纂したイブン・ヒシャームも、ムハンマド (c.570-632) の100年以上あとの生まれなので、直接ムハンマドに会ったり 話を聞いたわけではありません。それでもムハンマドの人物や事績、戦争や事件について 伝承していた人は少なくなかったし、文章にまとめないまでも、学者的に研究している人たちもいたので、それらを蒐集して「歴史的に(伝記的に)」整理して記述した、ほとんど唯一の文書がこれです。 ところで どの「マホメット伝」を読んでも不思議なのは、ムハンマドが『クルアーン』(コーラン)を朗誦して神への信仰を呼びかける、といった記述が出てくることです。『クルアーン』はムハンマドの没後に編纂されて本になったものですから、ムハンマド自身がそれを読むことなど できないはずです。このことも、やはりイブン・イスハークとイブン・ヒシャームによる『 預言者ムハンマド伝 』に基いているのだということがわかりました。岩波版の第1巻、メッカ時代の第9章「移住の準備」を見るだけで、p.453、p.459、p.471などに、「使徒はイスラムを説き、コーランを朗誦した」というような記述が 頻繁に出てきます。もっと多くの解説書などを読めば、その記述の妥当性が解るのかもしれませんが、今のところ 私には 謎のままです。
ロンドン・ムスリム学院・院長の M・A・ザキー・バダウィーは、拙訳書『 楽園のデザイン(イスラムの庭園文化)』の序文に、次のように書いています。
こうしてイスラームでは偶像的表現を極力排し、とりわけイスラームの開祖 ムハンマドの姿は描かないことを原則としました。ところが、このフランス国立図書館所蔵の古写本『ミラージュ・ナーメ』では、全ページに ムハンマドが登場するどころか、その顔にヴェールも かけられていません。偶像表現の禁止というのは 実は それほどの禁忌ではなく、イスラーム初期においては 生類も ムハンマドも 絵にされました。まだイスラームが十分に理解されていない時代に描かれたものは 無理もないと言えます。むしろ中国においてのほうが、偶像表現の禁忌を よく守ってきた印象を受けます。清真寺の中には偶像ひとつなく、仏教や道教の寺院と違って、まったく彫像が無いので、常にガランとした印象を与えます。
( 2022 /11/ 01 )
< 本の仕様 >
●『 ムハメッド傳 』坂本健一 著、大正12年 (1923)定価50銭
●『 怪傑マホメット 』 忽滑谷快天(ぬかりや かいてん)著、井洌堂(山中孝之助)
●『マホメット』井筒俊彦著、昭和27年 (1952) アテネ文庫、弘文堂、定価30円。 |