『 武士の娘』

長崎書店版 『武士の娘』 1943年(昭和18) 表紙
戦時中のこととて ごく簡素なソフトカバーの本で、題箋 貼りつけ。
6月に発行して、7月には重版しているから、だいぶ評判になったらしい。
本の大きさは 18cm × 12.5cm × 2.5cm、421ページ、290グラム



『 武士の娘』

長崎書店版 『武士の娘』 1943年(昭和18) 扉と見返し裏。
大岩美代に長崎書店を紹介した 阿部知二が序文を書いている。



『 武士の娘』


「 序 」 安部知二 (前半)

 この書が日本の読書界に 今日紹介されることになったについては、原作者 杉本女史の感慨は 測りがたいものがあらう。我らもまた 多少の感慨がないでもない。
 この『武士の娘』は 文字通りにアメリカと欧州との読書界に喧伝された名作である。昨年、同じ訳者によって紹介された小説『お鏡お祖母さま(おきょう おばあさま)』は、日本婦人の精神の姿を傳へるものとして、多くの愛読者を得た。
 さてこの『武士の娘』は『お鏡お祖母さま』よりも 遥かに前に書かれたところの自伝的物語であり、女史の名を欧米にひろく傳へた主作品である。いま やうやく日本文になってあらはれるといふのが不思議なほど有意義で興味の深い本である。
 この書の内容は、いはば「前編」と「後編」とに分かれている といってもよろしい。前半は、雪深い地の家老の娘に生まれた女史が、明治維新直後の大変動のただ中に 幼時を過された想い出である。崩るべくして崩れた封建社会の伝統は、果して何物の価値もないものであったらうか。 否。人々はこの書の中に、いかに高く強く美はしい精神の伝統がそこに在ったかを見て、むしろ明治 大正 昭和と 昨日までつづいた一時代の混乱退廃をこそ 嘆きたくなる。この点、長崎書店から出ている名著『名ごりの夢』と共に、得がたい文献として、日本婦道の真の伝統を今日の人々に教へる。
 しかし、封建の婦道が 全くそのままで今の世まで流れて来ることが出来なかったことは 惜むべきではあったが、歴史の一つの必然でもあった。それは まず大きな世界の荒浪の中を潜って成長を遂げなければならぬ という運命を背負っていたのだ。このことを象徴的に示すものこそ この『武士の娘』だ。この一つの美しい真摯な魂は 荒浪の中を泳ぎ進みながら、アメリカ文明の真っ只中に 飛び込んで行った。もとより その時代の人として、この太平洋をへだてた二つの文明が、いかにして結びつき 溶け合ひ得るかといふことを その魂に課せられた至難な課題として受取った。ひたむきに その仕事を成しとげようとした心の闘いの跡が ここにまざまざと出ているわけなのである。


『 名ごりの夢 』

参考
長崎書店版 今泉みね 『名ごりの夢』 1941年(昭和16)函
現在は「平凡社ライブラリー」で出ている。