『 水源 』  アイン・ランド著 藤森かよこ訳  ( Ayn Rand: The Fountainhead, 1943 )
 2004年 7月発行、ビジネス社、A5判、1,040ページ、5,250円


 映画 『摩天楼』の原作小説の日本語訳がこの夏に出版された、と言えば、年配の建築関係者なら誰もが エッと驚くことだろう。 映画とは題名が異なる上に、訳書ではそのことが強調されていないし、そのような宣伝もなされなかったから、建築雑誌でも全く紹介されなかったので、この本のことは、建築界には ほとんど全く知られていないからである(出版社の 販売戦略のミスだと言えよう)。
 多くの人は あの映画に原作小説があったということさえ知らないかもしれないが、私以上の年配の建築家なら、一度はあの映画を見たことがあり、強く記憶に残っているはずである(日本での公開は 1951年)。 あの映画を見たことが 建築家を志すきっかけになったという人も、私の一世代上の建築家には珍しくない。(実は もう 1本 そういう映画があり、これは 原田康子の小説 『挽歌』(1956)の映画化で、当時の人気俳優、森雅之が主人公の建築家を演じ、昨今の『冬のソナタ』のようなヒット作となった。 この映画を見て 建築家になろうと思った人も多かったという。)

 『摩天楼』では、主人公の建築家を 当時のハリウッドの大スター、ゲイリー・クーパーが演じ、ヒロインをパトリシア・ニールが演じた。 私がこの映画を見たのは、たしか学生時代にテレビ放送でだったから、放送時間にあわせて ところどころカットされていて、少々話が わかりにくかったが、全体としては、何という 楽天的なハリウッド映画かと、あきれたものだった。 「ゲルツェンとロシアの風景」に書いたように、当時の私は むしろ「戦争の真の終り」のような シリアスな映画における建築家像の方に リアリティを感じていたのである。

 しかし、今年の初めに、あるオーストラリアの女性(その父親は フランク・ロイド・ライトを偏愛する建築家であるという)から「ライトをモデルにした建築家の小説」があり、しかも実に面白い という話を聞いた。 それが、この "The Fountainhead" で、早速本を取り寄せてみると、それはまさに あの映画の原作であることがわかった。(「摩天楼」という映画の邦題が あまりにも うまい命名だったので、その原作も "The Skyscraper" というのだろうと思い込んでいたため、話を聞いた時には 気がつかなかった。)
 ところが これを読み始めたものの、あまりに長い小説なので、途中で中断したままに なってしまった。 その翻訳が 最近出版されたことを知ったので、やっと日本語で 全編を読むことができたわけだが、それは記憶にある映画の印象とは ずいぶんと趣を異にしていた。 映画では、この小説の ハーレクイン・ロマンス的な面だけが描かれていたのだが、原作は むしろ 一種の観念小説とでもいうべきものである。

 ここには ストーリーは書かないが、日本に旧・帝国ホテルの設計もした 天才的建築家 フランク・ロイド・ライトをモデルとする ハワード・ロークという孤高の建築家が主人公であり、その師としての建築家 ヘンリー・キャメロン(そのモデルは言うまでもなく、ルイス・サリヴァンである)も登場する。 このヒロイックな建築家の系列と対比的に カリカチュアライズされて描かれるのは、ピーター・キーティングや ガイ・フランコンといった、真の才能はないにもかかわらず 現実世界で名声を獲得する保守的建築家たちである。(彼らのモデルは特定の誰かではなく、世俗的成功を修めた 建築家一般だといえよう。)
 この黒白の構図は 初めから終りまで固定されたままで、それぞれの内面的葛藤と成長というものが描かれないために、これはアメリカで 累計 700万部を売る 超ベストセラーとなったかわりに、通俗小説の烙印を押されてしまうことになる。 それだけ、一般アメリカ人の 建築家に対するイメージ形成には、巨大な影響を与えたことになる。

 しかし、作者のアイン・ランド(1905-82)が描こうとしたのは、人間と この世界に関する観念なのであって、それを表現するのに最もふさわしい職業分野として、建築家を選んだのに過ぎない。 彼女は人間の卑小さを嫌悪する。 凡庸な精神と依存心、偽善と怠惰、付和雷同と自己欺瞞、大衆性と無名性、等々を嫌悪し、寄生虫的人間や セコハン的人間を憎む。(そうしたものを 大衆に植え付けようとする、極端な人格として描かれるのが、エルスワース・トゥーヒーという 建築評論家である。)
 彼女が求めるのは、孤立を恐れぬ 高邁な独立心であり、自己の欲望に正直な人間であり、何物にも規制されない創造的能力であり、低劣な集団からの迫害と 徹底的に闘う精神である。そうした あり方が可能ではないかと感じたのが、建築家という自由業であり、そして それを象徴するかのような 同時代のフランク・ロイド・ライトを見出したからこそ、彼女の理念を体現する主人公を 建築家と設定したのである。

 彼女は直観的に、建築家の持つ 2面性を見抜いた。 市民社会に奉仕するプロフェッション(献職)としての建築家と、自己実現をめざす クリエイターとしての建築家と。 利他主義を奉じがちな前者を ランドは否定し、後者の 「利己的な (金銭や地位に対してではない)」、創ること それ自体を目的とした 自己中心主義の姿勢こそが社会を動かし、発展させる原動力だと断じる。 それは創造者であり、無から有を産み出す存在であり、その強固な意志を 何者も妨げることのできない 絶対者である。
 近代の分業化の社会にあって、人間は そのメカニズムの部品のような存在に なってしまった。 歯車の一員として 他者の間に埋没し、黙々と その役割を果たすことこそが善である とされる、あるいは、人間が歯車の一員としてしか存在しえないようなシステムに 否応なく組み込まれてしまった。 ランドには、それが我慢ならない。 人間は単独者として、自ら 全体的な価値を創り出す存在であるべきだし、自己の欲望を全面的に押し出してこそ、はじめて 世界における 意味のある存在だと 考えるのである。
 そして 近代以降の社会を見渡したとき、そうした存在が可能であるかに見えたのは、政治家と建築家であったのだろう。 政治家の場合には、社会の あるいは国家の アーキテクトであったとしても、調停家としての役割を果たすことが 最大限に要請されるし、そうではない自己実現の道を選ぼうとするなら、衆愚政治による 大衆操作の支配者となるほかはない。 一方、建築家の場合は、現代社会にあっては珍しく、歯車の一員としてではなく、神のような創造者として、無から有を、ひとつの全体像を、しかも巨大なスケールのモニュメントを、自分の力と才能で創ることができる と考えたのである。 現実には存在しそうもない 絶対者として、ハワード・ロークという建築家を造形したのだった。

 アイン・ランドは 自己の思想を「オブジェクティヴィズム」(客観主義)と名づけたようだが、私には、『唯一者とその所有』を書いたドイツの哲学者、マックス・シュティルナー(1806-56)のアナーキズムが 一番近いのではないか と思われる。 ヘーゲル左派に属しながら、自我と その唯一性を すべての価値の根源におき、実存主義の先駆ともなったシュティルナーの思想こそ、主人公のハワード・ロークに与えられた 本質ではなかろうか。

 訳者の藤森かよこ氏は アイン・ランドの作品と思想に 完全に没入してしまい、ランドの研究と その思想の普及のためのサイトを 立ち上げている。 訳書には 十分な解説が書かれていないので、藤森氏のランドに対する理解と解釈は、そちらを見ていただきたい。 (「藤森かよこの 日本アイン・ランド研究会」
 現代の小説ではなく、書かれてからすでに 60年も経った(歴史的?)文学作品の翻訳には、その成立事情や評価の変遷についての 詳しい解説が添えられるべきでは なかったかと思う (全体が 1,000ページを超えるのだから、解説に 20〜30ページを充てても おかしくない)。
 その場合には当然、様式主義に対立したモダニズムの建築と 1930年代のアメリカの建築界の状況の解説が 必要であったろうし、また、建築面における翻訳チェックを 誰か建築関係者に依頼していれば、さらに良い翻訳となり、建築家たちにも 違和感なく読まれたことと思う。(例えば、「建築設計事務所」 とは言うが、「設計建築事務所」 とは言わない、とか、「パリの芸術学院」 ではなく、「パリ美術学校(ボザール)」 と言う、とか、Reinforced Concrete は 「強化コンクリート」ではなく「鉄筋コンクリート」と 訳す、とかいったぐあいに。)

 ところで、インターネット時代の 本の流通のしかたは 面白い。 日本語版は ソフトカバーで、大部数でないせいであろう、税込み 5,250円もするのであるが、その原書を インターネットで カリフォルニアの古書店に注文したところ、ハードカバーの The Bobbs-Merrill Company 版が 航空便によって わずか 3日で届き、 しかも価格は、送料込みで 19ドル(2,050円)という安さだったのである。
 とは言え、この大長編小説を 英語で読むのは 骨が折れる。 日本語訳の本書が 広く読まれることを 期待するものである。

(2004/ 12/ 23 神谷武夫)



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