座談会

建築が示すインド世界の面白さ

中央公論社版 『 世界の歴史 』 第 14巻
ムガル帝国 から 英領インドへ 」 月報
1998年 9月刊 (座談会は 8月11日 東京にて)

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佐藤正哲

佐藤 正哲 (さとう まさのり )
第 14巻執筆者。 亜細亜大学経済学部教授。 南アジア社会経済史を専攻。 著書に 『ムガル期インドの国家と社会』 など
 

中里成章

中里 成章 (なかざと なりあき )
第 14巻執筆者。 東京大学東洋文化研究所教授。 南アジア史を専攻。 著書に "Agrarian System in Eastern Bengal c.1870-1910" など
 

水島司

水島 司 (みずしま つかさ )
第 14巻執筆者。 東京大学大学院人文社会系研究科教授。 南アジア史を専攻。 著書に 『マレーシア 暮らしがわかるアジア読本』 など

神谷武夫

神谷 武夫 (かみや たけお )
建築家、神谷武夫建築研究所主宰。 アジアの建築を研究。 著書に 『インド建築案内』、訳書に 『イスラムの建築文化』 など




なぜインド建築を歩くか

中里 僕は 1977年にはじめてインドに行って、カルカッタから入ってカルカッタにもどる 3ヵ月の一周旅行をしました。そのとき、デリーの遺跡とか西インド・ラージャスターン州のアーブ山の ジャイナ教寺院 など、いろいろなインド建築を見て歩きました。しかし素人の悲しさで、いろいろインド建築を見ても、なかなか整理がつかなかった。それで、神谷さんの 『インド建築案内』 (TOTO出版、1996) を拝見して、すごい人がいると感心してしまいました。神谷さんはどうして、この本に出ているように古代から現代まで 2000以上のインド建築を巡歴するようになったんですか。

神谷 僕は 1976年の 1月にインドに行くまで、特別にインドのことを研究したり考えたりしていたわけではないんです。建築家になるつもりで大学を出て、設計事務所に勤めていたんです。ただ、ヨーロッパの建築はこうだけれど日本の建築はああだとか、日本の建築は遅れているとか、「日本対欧米」 という二元論の考え方で建築やその他の文化を考えることにずっと疑問をもっていました。日本と欧米ではない、別の世界があるのではないかと思ったときにまっさきに思いうかんだのがインドだったんです。それは、4月 8日の花まつりのお釈迦様とか子どものころの記憶があったからかもしれませんが ・・・。

で、3ヵ月の旅に出てインドをグルグル回っていたら、本当にあったんですね (笑)、日本とも欧米ともまったく違う世界が。たしかな情報もなく、苦労して尋ねあてた建築が日本建築、欧米建築と全然違っていて、自分にとっての第三の世界が眼前に開けて、それ以来のめりこんでしまったんです。

中里 第二次大戦後、新しいインド研究が始まって最初に現地調査のためにインドに行った調査団は、インド史蹟調査団というんですね。

神谷 ああ、荒松雄先生たちの調査団ですね。

中里 ええ。 デリーを中心に、史跡・建築の写真を撮ったり実測図を作ったりして調査したわけですが、その後、インド建築に対する関心は長続きしませんでしたね。

神谷 建築史の面でも、明治時代の東京帝大の伊東忠太とか大正時代の京都帝大の天沼俊一などがインドに行っているくらいで、インド建築の専門書があるわけでなし、インド建築史の講座があるわけでもなかった。 それに日本がインドのことを調査する場合、多くは仏教がらみになってくる (笑)。

しかし、インドを旅して回っていると、仏教建築なんてわずかしかありません。実際に目にするのはヒンドゥ教の建築であり、ジャイナ教の建築であり、イスラム建築であり、さらに近代の建物です。 これらがきちんと紹介されないことには、日本人の認識はインド=仏教国ということばかりになってしまい、正しいインド理解にならないと考えて、ヒンドゥ、ジャイナ、イスラム、近代の建築を一所懸命見て歩き、紹介することにしたわけです。

中里 インド建築にはいろいろな文化が影響しあっていて多様性の面白さがあると僕は感じています。

神谷 インドの伝統建築はやはりヒンドゥ教やジャイナ教の建築になるわけで、それとイスラム建築の対比と影響関係が、インド建築史全体を眺める一つの重要な線になりますね。


ゴーヴィンダデーヴァ寺院、ヴリンダーヴァン


イスラム建築がもたらしたもの

中里 イスラム建築の影響を受けたヒンドゥ建築はありますか。

神谷 あります。 すぐに思いつくのは、北インド、ウッタル・プラデシュ州 ブリンダーバンのヒンドゥ寺院。そこはクリシュナ神の聖地でヒンドゥ寺院がたくさんあったのですが、イスラムが入ってくるとみんな壊されてしまった。 しかし、アクバル大帝時代の寛容政策でヒンドゥ寺院が再興されるんです。 再興が許されるくらいだからイスラムの支配力が行きわたっていて、イスラム建築の影響を強く受けたヒンドゥ寺院ができるわけです。

中里 ブリンダーバンにですか。 しまらない話ですね (笑)。

神谷 集団礼拝をすることがヒンドゥ教にはないですから、伝統的なヒンドゥ寺院には大きなホールはなかったんです。 ところが、そのブリンダーバンの一番大きなお寺には、堂々たるイスラムのモスクのように大きな空間があるんです。 放射状に石を積んだ、まったくのイスラム建築にあるヴォールト構造で造られているんですよ。

古代インドはいまほど乾燥してなくて、木がたくさん生えていたんです。 だから木造建築が主流でした。 イスラムが入ってくる以前のインドの伝統的な石造建築はみんな、線的に柱を建てて梁を渡して造っていくという木造的な軸組構造なんです。 石は、上に積んでいく分には強いけれど、曲げに弱いから、梁として使うとひびが入って折れてしまう。 ですから柱と柱の間、スパンが大きくとれない。 石の梁は折れてしまうから。

中里 それがイスラムの影響を受けて、あの純然たる大ドームが造られるようになったんですね。

神谷 中東でははじめから木がなくて、石や土を焼いた煉瓦 (れんが) の建築でした。 そこでアーチを発見し、アーチを連続させてヴォールト構造を造り、アーチを回転させたように求心的に造るドームができていったんです。 アーチやドームになると、大きなスパンを架け渡すことができるんです。 ですから、イスラムの建築技法がインドにやってくると、インドでも大スパンの建物ができるようになる。

中里 デリー・サルタナット時代にイスラムが入ってきてモスクを建てますが、最初のころのドームは、石を少しずつ持ち出してドームを作る 「持ち出し構造」 だったんですか。

神谷 そうです。 本当のアーチやドームは、放射状に石を積まなければ力学的に力が働きません。 さっきのアーブ山の寺院のドームは 「持ち出し構造」 でできているので、直径 6、7メートルぐらいが限界なんです。 その構造で 10メートル以上のドームを造ったら、ドームが落っこちてしまう。 「持ち出し構造」 で当時造られたドームで壊れてしまっている例はたくさんありますよ。

つまり、いったん、ある美的感覚を身につけると、それを捨てることが非常に難しいんですね。 イスラム建築が伝えられてアーチやドームを自由に造ることができるようになっても、インド人には柱・梁式に石造建築を造ろうとする意識が根強く残っていくんです。 美的感覚と構造的合理性は必ずしも一致しないものなんですよね (笑)。


どんな人が造つたのか

水島 インドの建築様式・技術はどういうかたちで伝播 (でんぱ) していくのでしょうか。 建築手法の文法書のようなものがあるんですか。

神谷 日本には、お寺や神社の柱や梁や屋根などのいろいろな比例関係を規定した規準書、「 木割 (きわり) 」 がたくさんありますけれど、それに似た建築儀軌の書は古代インドからあって、中世には各地方地方にたくさんあったんです。いちばん有名なのは、『マーナサーラ』 という南インドの本です。 ただ、本当に造る人たちがそういう理論書に基づいて造ったのかというと、難しい問題で、ものを造る人は本に基づいて造ることをそれほどしないものなんですね (笑)。 経験で伝えられていくのでしょうね。 とくにインドのように世襲制が強いところでは、そうなるでしょう。

中里 南インドの寺院建築について、実際に測って、理論書に合っているかどうかを研究した人がいるんです。 ところが、やはり合ってなかった (笑)。 しかし、そのズレが面白いようですね。

水島 いま東南アジアではいろいろな宗教のリヴァイヴァル運動があって、地方の町でもインド人コミュニティがヒンドゥ寺院を造ろうとしています。 ところが自分たちでは造れないので、インドやスリランカから職人を長い年月の契約期間で呼んで造らせていますよ。

神谷 ですから、建築は理論書によるのではなく、人間によって伝えられていくのでしょうね。

水島 それから、建築模型のようなものは作るんですか。

神谷 模型・図面の類 (たぐい) がほとんど残っていませんので、わからないんです。 昔の人たちがどうやって建てたのか、まだわからないことばかりです。 とくに僕は、岩山を上から彫っていって、彫り残したところが寺院になる石彫寺院は、設計図なしでどうやって造っていったのか、わかりませんね。

水島 たとえば南インドである様式の大きなお寺が建つと、それとよく似た形のお寺が村レヴェルにまでできていきます。 それは、寺院建築に関わる人たちが集団でいて、大きなプロジェクトがあると集まってきて造り、終わると村にもどる。 村にもどって同じようなお寺を造ったりするのでしょう。 そういう人びとの移動性は高かったんでしょうね。

神谷 そうだと思います。インドに限らず、中世のヨーロツパでも巡歴職人がいて、自由に往き来していました。 ロマネスクの建築が 11世紀にヨーロッパ中に広まったのも、そういう職人たちの移動によるわけです。 インドでも建築家や彫刻家の名前が若干あちこちに残っていますから、建築や彫刻などの職人の移動性は高かったようですね。

大きなプロジェクトになると、たくさんの職人が集められて建築にたずさわり、それが終わると、そこで覚えたことが国元に伝わっていったと思います。

佐藤 その場合、職人は集団で移動しているんですか。

神谷 集団の場合もあれば、単独で移動することもあったでしょうね。 くわしくはわかりませんが。

佐藤 いまでもラージャスターンなどでは冬になると、鍛冶屋 (かじや) さんが荷車を連ねて家族で移動してきて、町の外にテントをはって農具を直したりしているんです。 それを見ていると、家族で移動することもあつたのではないかと思いますけど。

神谷 妻子がいれば妻子を連れて移動したかもしれませんが、移動しやすいのは単身者でしょうね。

水島 寺院建築がどんどん増えていくと、寺院建築に関わる石工や大工さんの地位があがってきます。南インドの場合、大工関係の人たちのコミュニティをアーサーリーといいますが、19世紀に、自分たちはアーチャーリーでバラモンだという運動が起こってくるんです。

神谷 建築関係者というのは多岐にわたりますので、いわゆる身分の高い人も低い人もいたと思います。 西インド、グジャラート州のソームナートで、11世紀、イスラム軍に破壊された有名なソーマナータ寺院を再建しているんです。 もうほとんどできていますが、まだ壁面にただの四角い石がはめこんである部分がある。 それは仮に置いてあるので、神像を彫刻した石ができあがると、それとさしかえるんです。 地上でその彫刻をしている上半身裸の男が、上から覗 (のぞ) いている僕に、「おまえのカーストは何だ」 と聞いてきたことがあるんです。 日本人だからカーストはないと答えたら、「俺はバラモンだ」 と言う (笑)。 神像を彫刻する人はバラモンなのかと、そのときはじめて知りましたよ。

水島 それはほんとうに、バラモンですかね。

佐藤 どうかなぁ。 神殿建設に従事しているということであれば、その可能性もないわけではない。


ソーマナータ寺院の壁面、ソームナート


彫刻で埋めつくされる建築

神谷 西インド、ラージャスターン州のラーナクプルに、アーディナータ寺院 というすばらしいジャイナ教の寺院があります。 インド建築の最高傑作と僕は言っています。

佐藤 私も行きましたが、その彫刻は実にすばらしいですね。

神谷 このアーディナータ寺院は大規模で、高く低く、ドーム屋根があちこちにたくさんかかっているんです。 そのなかに未完成のドームもありましてね。 天井の中心から細かく彫刻されたハスの花の列が螺旋 (らせん) 形を描いて下りてくるドーム天井なんです。 白大理石で造られています。ところが、中央から始まった彫刻が途中でパタッと止まっているんです。 なぜか、わかりませんが ・・・・。

それを見て、僕ははじめてインドの伝統建築の建て方がわかりました。 つまり、まず石工が石を粗く刻み、それで全体を組み立ててしまう。組んだあとで彫刻家が乗りこんできて彫っていくわけです。

水島 建築家と彫刻家とは分離しているわけですか。

神谷 全体を統制していなければ建築家といえないわけです。 はじめは石工たちが粗く刻んだ石を組み立てて全体をまず造ってしまい、そのあと彫刻家が神像や象やハスの花などを細かく彫っていく。

佐藤 そうすると、石を切り出す人とそれを粗く刻む石工とは違うわけですか。 史料には石工と出てきますが、その区別がつきませんね。

水島 インドらしく、分業が細かくなっているから、あるいは違うかもしれませんね。

神谷 日本人は絵画が好きですが、インド人が一番好きな造形芸術は彫刻なんですね。 ですから、壁面を全部彫刻で飾るように、建物自体も彫刻のように造ろうとする。 内部空間はすばらしいけれど外側からは外観の姿が見えないアラブ型やペルシア型のイスラム建築が伝えられても、インド人にとっては面白くない。 それで、インドの伝統的な美学をとりいれ、イスラムの中庭を囲む内向きの建物から、外向きにかっこうよく見せる彫刻的な建物に変えていくわけです。

中里 それはよくわかる気がします。 もうひとつ、インド・イスラム建築の特色として、廟建築が主流になったと言えますか。

神谷 言えます。

佐藤 廟建築と言えば、サンスクリットのチャトラ (傘) と同じことばの チャトリ という、廟や城を飾る小さな建物がありますね。 チャトリはイスラム建築との関係ではどういう位置を占めているんですか。

神谷 インド人の美学ではやはり、柱・梁の建物が好きなんです。 だから、四本柱を立てて梁を渡し、真ん中にドーム屋根をかけ、周りに板廂 (いたびさし) を石で出すというチャトリ形式を生みだした。 それをまた、めったやたらと飾りにつかっています (笑)。 チャトリのあるイスラム建築は、イスラム圏広しといえどもインドにしかないわけで、インドの伝統がみごとに表れていますね (笑)。

水島 さきほど、建築家の名前が残っているとのお話でしたが、どこの建物ですか。

神谷 ラーナクプルのアーディナータ寺院です。 デパーカという建築家が設計したとの碑文が残っていますし、400本ぐらい立っている彫刻のある柱の一本の真ん中には、デパーカの像 が刻まれているんです。

これは本当に珍しいことなんです。 宗教的なものを造るのは神様であって、人間は神の代理人か手下にすぎないということがアジアでは基本的な考え方になっていますから。

水島 南インドの建築と北インドの建築とを比べてみて、根本的な違いというものはありますか。

神谷 中世のヒンドゥ寺院は基本的に南方型と北方型とに分けられるように、スタイルが違います。 僕は南インドの建築で不思議でならないことがあるんです。 それは、チョーラ王朝時代には、タンジャーヴール やガンガイコンダチョーラプラムの02_大寺院のように本堂 ― ヴィマーナ ― がどんどん大きく飾りたてられていく。 ところがチョーラ王朝が滅びて、ヴィジャヤナガルの時代になると、その動きは止まってしまう。 本堂を目立たせない。むしろ古いものをそのままにしておいて、その周りに大きなゴプラ ― 境内を囲む塀の四方に設けられた高大な楼門 ― が造られていく。

こういう方向転換がなぜもたらされたのか、よくわかりませんね。 社会の根本的なメンタリティの転換が南インドにあったのでしょうか?

水島 そう、たしかにヴィジャヤナガル時代になるとゴプラが大きくなって、中心部分が目立たなくなりますが、その転換がどうしてなされたのか、私はよくわかりませんね。


マンゲーシャ寺院のカンパニーレ,マルドル


インドには何でもあり ・・・・

佐藤 ヨーロッパの建築様式がヒンドゥ寺院の建築に影響を及ぼしたことはありますか。

神谷 ゴアの近くに、その実例があります。 ゴアはポルトガルの植民地になりますが、ゴアの町からはヒンドゥ教徒がみんな追い出されてしまいます。 そして、ゴアを囲む山のほうに移住したヒンドゥ教徒が寺院を建てていくのですが、それを造ったのはポルトガルの教会堂建築などを設計したゴアの建築家たちなんです。 そうなると、キリスト教会堂に近いヒンドゥ寺院が造られるんです。 ラテン十字型のプランで、前面にはイタリア語で言うカンパニーレ (鐘楼) が建っているんですよ (笑)。

佐藤 へえー。 そんなものが存在するんですか。 そのカンパニーレはどういう役目をするんですか。

神谷 鐘を吊り下げていたかどうかわかりませんし、モスクのミナレットのように礼拝に誘うアザーンを唱えるような場所ではないし・・・・、よくわかりません。 ともかく、キリスト教会堂を造ることに慣れっこになった建築家や職人たちがそういうものを造らないと満足しなかったのではないでしょうか (笑)。

水島 インドには、何でもありですね (笑)。

中里 そこが面白いんだ (笑)。

神谷 インドには、文明の影響関係を示す建物がいっぱいあります。 はるか古代のアレクサンドロス大王が伝えたヘレニズム文化はガンダーラ彫刻として残されていますが、北西のカシュミールのヒンドゥ寺院にはヘレニズムの影響が伝えられているし、それはチベット文化圏のラダックの建築にまで流れています。

中里 ラダックにまで行きますか。

神谷 ヒマラヤに近い北インドはラダックとカシュミールとヒマーチャル・プラデシュの三つの地域に分けられ、宗教的にも順に仏教、イスラム、ヒンドゥ教に分かれますが、ヒマーチャル・プラデシュのヒンドゥ寺院には木造のものが多いんですよ。 南のケーララ州の木造ヒンドゥ教寺院は知られていますが、最北インドのほうはまったく知られていなかった。 僕はその寺院を現地で見て、本当に驚いた。 木造建築の流れはいまも続いているんです。

佐藤 西インドの砂漠のなかでも、太い木の桂を真ん中に立てた円錐形の家に人は住んでいますね。

神谷 いちばん典型的なのは、グジャラート州のクッチで見ることができますね。 そこの集落の住居は、円形プランの土壁の上に、かろうじて採れる木の枝で垂木 (たるき) を組み、草で屋根を葺き、土の床は一段高くなっています。 世界中の住居の原型と言えるものですよ。

佐藤 インドについてはよく多様性といわれますけれど、本当に多様な価値観があるというか、いっさいのものがすべて多様性に富んでいますね。 私たちはあまりにも価値が一元化された社会に生さていますから、多様な価値観に満ちた世界の存在、あるいは寛容といったものをインドから学ぶことが必要ではないかと、僕は思っていますよ。

神谷 台北の故宮博物院には年間 40万人ぐらいの日本人が行くそうですが、ニュー・デリーやカルカッタの博物館には年間 7000人ぐらいの日本人が行くだけなんですって。 インド人はそれでも 「多いだろう」 と言う (笑)。 日本人にとってはやはり中国や台湾が近い国であって、インドはいまだに遠い国であるらしい。ともかく僕としては、「みなさん、インドヘどんどん出かけてみてください」 というばかりですよ (笑)。

中里 僕も佐藤さんに似ていますが、インドには多様性をつきぬけて何でもあり (笑)、ですね。 さきほど、イスラムの影響を受けているヒンドゥ寺院建築があるという話がありましたが、そういう思いがけない発見がある地域だというところがあります。 だから、こんなに面白いところはないということを、言いたい (笑)。

佐藤 たしかにその通りです (笑)。

中里 なぜ、インドはこんなに無視されているんだろうという感じもしますね。

水島 インドの井戸というのは、岩の割れ目から、水がどんどん出てくるんですよ。 水を汲みだすとなくなってしまうんですが、次の日に行くと水がまた溜まっている。 汲み上げても汲み上げても底がないという魅力の湧き出るところがインドなので、飽きないんです (笑)。 知的関心をかき立てる地域が、インドですね。


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