私の転機

二人の男性との出会い
山崎朋子

(朝日新聞、掲載年月日不詳)

山崎朋子

 人生に転機というものがあるとするなら、わたしの場合、それは2度の結婚にあったような気がします。1回目の 籍を入れなかった結婚は、済州島から日本へ勉強に来ていた朝鮮青年とでしたが、東大法学部から大学院まで出た人なのに、民族差別のため 職に恵まれず、収入は、パチンコで取った玉を替えてもらったお金だけ。わたしは、昼は 東京・新宿のキャバレー事務員、夜は 谷中の喫茶店でウェートレスをして働きました。毎日十数時間の労働をして 食うや食わずで、給料の前借りをするたびに、キャバレーの支配人から、「ピカちゃん(当時のわたしの あだ名)、事務員でなく ホステスで働きゃいいのにね」と言われたものでした。
 ある年のクリスマスの夜、わたしは 喫茶店の主人夫婦に呼ばれ、いきなり 解雇を言い渡されました。「朝鮮人と一緒にいるような女は 困る」というのが理由でしたので、わたしは 問わずにいられませんでした――「だって、あなた方も 朝鮮人ではありませんか。それなのに、何故?」と。間髪を置かず、「うちらは、帰化した 立派な日本人よ!」という答えの返って来たのが 忘れられません。
 この結婚生活は2年ばかりで終止符が打たれました。打ったのは私で、身の回りの物を ふろしきひとつに包み、黙って彼の所から 立ち去ったのです。
 昭和30年前後、彼の属していた 在日朝鮮人の政治運動団体の周辺では 日本人妻を忌避する空気が強くなり、エリート中のエリートで、 <祖国のために生きる> ことに忠実だった彼は、その空気のなか ひとり懊悩(おうのう)していました。彼は わたしには何も言わず、わたしも彼に たずねませんでしたが、彼や彼の同志にとっての その <祖国> がどんなに大切なものか ということは、わたしなりに わかっていました。天空が落ちてくるようなことがあっても 添い遂げたいと思い詰めていた人と 別れなければ、その人の志を活かすことはできないとは。25歳の娘にとって、それは ずいぶんと つらい選択でした。
 その後のわたしは、ほとんど茫然(ぼうぜん)自失でした。そんな状態でいると、人生、ろくなことは ありません。ひとりになって数か月後、やっぱりクリスマスの日に、着のみ着のままで焼け出されると共に、借りていた部屋の大家である5人の子持ちの未亡人から 失火犯として警察に突き出され、冤(むじつ)が晴れて、少しほっとしたのも束の間、今度は、夜の道で 顔を7カ所も刃物で切られるという 不慮の出来事に出会ってしまったのです。
 頼るべき人もなく、傷だらけの顔の女など 使ってくれるところもなく、路頭に迷ったような ありさまでしたが、わたしは、不思議なことに そのころから ようやく 明るさを取り戻しはじめていました。そんなとき たまたま めぐりあったのが、現在の夫、やがて児童文化の研究者になった 上(かみ)笙一郎で、わたしに <文章を書く> ことを教えました。初めの結婚で <人間の差別> や <政治の属性> について否応なしに学んだ わたしは、二度目の結婚において、考えたことを表現する方法を 学んだのです。
 「女性史の勉強をしたい」という わたしに対して、彼は言いました。「女は教えてもらおうとするから 駄目なんだ。売文業は、とにもかくにも 人の読むに耐えるものを書かなくてはならないから、いちばん勉強になる。だから、書いた原稿の最初の一枚から 売って来たまえ」と。そこで わたしは、同郷の先輩、奥むめお女史の先例にならって、乳飲み子の長女を背に 雑誌社へ出かけたりしたのでした。
 以来26年、気弱なわたしは一冊書き上げるたびにノイローゼとなり、何とか気を立て直しては、また ささやかな仕事をする というふうに して来たわけです。わたしが 20代に このふたりの男性に出会わなかったならば、今日のわたしは なかったに ちがいありません。




金桂仙

● ついでに、最近出版された本を一冊紹介。『歌は分断を越えて、在日コリアン二世のソプラノ歌手・金桂仙(キム・ケソン)』:坪井兵輔著,阪南大学叢書112,2019,新泉社
著者の坪井氏は元・毎日放送ディレクターで、現在は 阪南大学准教授。
 在日二世で、歴史に翻弄されて苦節の人生を歩みつつ、ソプラノ歌手として韓国・朝鮮と日本をつなぐように 両国の歌を歌い続けてきた 金桂仙(キム・ケソン)さんの人生と、日朝、日韓関係の歴史情況を ていねいに語っています。   (2019/08/01 神谷)



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