The PROFESSION and MORALITY of ARCHITECTS' FIRMS

設計事務所モラルプロフェッション

神谷武夫

八千代銀行


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 私の事務所のあるマンションの隣(道路を隔てずに、私の部屋の真向かいの隣地)は、八千代銀行の滝野川支店です。3階建ての小規模な四角いビルでしたが、昨年から5階建ての大きなビルへの建て替え工事をしています。私の部屋は5階ですが、銀行ビルはマンションよりも階高が大きく、しかも敷地いっぱいに建てているので、こちらのバルコニーの目の前に工事用のシートが 立ちはだかりました(こちらのマンションは、敷地境界から4.5メートルくらいバックしていますが)。

 設計は石本建築事務所、工事は清水建設という表示が出ていますが、いったいどんなビルになるのか、近隣説明会がないので、まったくわかりません。銀行というのは 近隣住民からの信用を重視するものなので、そのうちに近隣説明会をやるだろうと待っていましたが、一向にその気配がありません。そこで、ついに1月12日に、工事の現場事務所で話を聞こうと思って、こちらから工事の仮囲いの入り口に行ってみました。すると清水建設のガードマンの人が、ここには現場事務所はなく、近くのマンションの2階に部屋を借りている と言います。そこへの案内を頼むと、ちょうど今日は定例会議の日で、今、建主の八千代銀行と、設計の石本建築事務所の担当者が来ていますと言いながら、マンションへ案内してくれました。

 その玄関前のところで、ガードマンが事務所にケイタイで、近隣住民の人が来ていますと連絡をとるのですが、担当者は一向に現れず、寒風の中を長時間待たされました。その間に八千代銀行の人は雲隠れしてしまい、やっと清水建設の工事主任が降りてきた時には、今日の定例には銀行の人は来ていない、と言う始末です。銀行が近隣住民を大切にするというのは、今は昔のことなのでしょうか。近隣に対する説明は、第一義的には建主である銀行の役割なのに、その後もいっさい前面に出てきません。

 2階のゼネコンの現場事務所の片隅で、石本建築事務所と清水建設の担当者と会見して、いったいどのような建物になるのか知りたいと伝え、まず、なぜ近隣説明会を開かなかったのかと尋ねました。すると、その二人が口をそろえて、「近隣の方々へは1件1軒まわって説明をしました」と、嘘をつきます(私を外で待たせている間に、三人が口裏をあわせたのでしょう、私を新参者とでも見くびって)。そんな説明を受けているなり、資料をもらっているなりしていれば、わざわざこうして現場事務所を訪れるわけがありません。

近隣への配慮と説明

 その場には今度の建物のパース(透視図)が置いてありました。模型は別の所にあると言います。パースと図面を見ながら、建物の概要の説明を受けました。建物のデザインに対する批評をすることは控えましたが、説明会をやらないのであれば、他にもあるというパースと模型写真、概要図面とを近隣の全戸に配布すべきこと、工事の週間工程表と、どんな騒音が出るのかの予定を毎週月曜日に各戸の郵便受けにいれておくことを要望すると、両人は そうしますと約束しました。(こんなことは言われるまでもなく やるべきことで、数年前に道路を隔てたところに高校の校舎の工事が行われた時には、近隣説明会や週間工程表の配布など、実にきちんとやっていました。)

 ところが、いわゆる大手設計事務所(つまり 数百人のスタッフをかかえる大組織設計事務所)である石本建築事務所と、大手建設会社(スーパー・ゼネコンなどと呼ばれる)清水建設は、この約束をきちんと果たしません。パースと建築概要書は、私の郵便受けには翌日いれていきましたが(模型写真はありません)、他の住戸には配布しなかったのです。また工事の週間工程表は、最初の、1、2回は郵便受けにいれたものの、あとは一切なしです。

 八千代銀行、石本建築事務所、そして清水建設が、新築建物についての近隣説明会も開かず、パースや模型写真を配布することもしない理由は、次第にわかってきました。今度の建物は、3階より上では、明治通りに面した表側には、騒音をさけるために窓を設けず、裏の通りに面した側を全面ガラス開口として採光するようです。そして、日影規制に適合させるために、後ろ側は上階ほどセットバックする階段状の構成とし、各階のガラス開口の前面を 広いテラスとしています。すると、この各階テラスから目と鼻の先の、私のほうのマンションの各階の住戸を のぞきこむ形となるのです。

 私の事務所は5階ですから、のぞかれる程度は小さいですが、4階、3階の住戸では、たとえ のぞかれていなくても、絶えず のぞかれるような気がするでしょうし、終日家にいる女性は、それをいやがることでしょう。そこで八千代銀行は、もし近隣説明会を開いて、模型や図面で説明すれば、建設反対運動なり、設計変更の要求なりが起こるであろうことを危惧して、説明会も開かず、近隣の人が来たと聞けば逃げてしまい、設計事務所と建設会社の担当者には、近隣住戸を一軒ずつまわって説明をした などと嘘をつかせ、私との約束も反故にして他の住戸にはパースや模型写真を配布しなかったのでしょう。

 この設計事務所は設計段階において、近隣への配慮をしなかったのでしょうか。こちらがオフィス・ビルであれば、今の設計でなんの問題もありませんが、隣が集合住宅であることを知っていながら、しかもそちらに面する敷地いっぱいに建物を建てるのであれば、当然「のぞき」の問題が生じることは わかるわけで、竣工後に紛争になったりするのを避けるためにも、近隣に配慮をした設計をするのが常識です。もう、周辺環境を無視して、自分さえよければ という建物を設計する時代では ありません。

 ともかくも、私と約束をしたのに、各住戸にパースや模型写真を配布せず、週間工程表も配布しないことについて、日本の建築、建設関係者のモラルはずいぶん低下したものだと思わざるをえません。清水建設には初めからモラルなど 無いのかもしれませんが、プロフェッションである石本建築事務所が そうであっては困ります。それとも、石本建築事務所は建築家としての矜持をもった集団なのではなく、工務店の設計部門程度のものだ、とでも言うのでしょうか。八千代銀行・滝野川支店の設計監理担当者は、日大の今村研の出身だそうです。日本では工学部に置かれる建築学科のプロフェッサー・アーキテクトの研究室でも、学生にプロフェッション教育はしないのでしょう。

 ところで、石本建築事務所というのは、はるか昔に 建築家の石本喜久治(1894−1963)が創設した設計事務所です。建築家ならだれでも知っていることですが、日本における最初の「建築運動」である「分離派建築会」のメンバーでした。それは、1920年(大正9年)に東京帝国大学の建築学科を同期で卒業したばかりの6人(堀口捨巳、山田守など)が起こしたもので、芸術志向の若手建築家一派の売名行為であったと言われたりもします(実質的内容よりは、デパートにおける展覧会や、岩波書店からの自費出版による作品集の刊行による衝撃、影響のほうが 大きかったので)。

 自費で欧米の建築の視察をしてきた石本喜久治は、その代表とも目されました。1927年(昭和2年)に大阪の片岡安と共同で片岡・石本建築事務所を設立して白木屋デパートを設計し、1931年には単独の石本建築事務所としました。私などは、高校時代に読みふけった立原道造全集を通じて(立原が大学卒業とともに就職したのが 石本建築事務所であったことによって)その名を知っていました(堀辰雄の小説『菜穂子』の副主人公、建築事務所に勤める 都築明 は、その立原道造をモデルにしています)。しかし石本は その後、建築家として これという作品を設計することなく、戦後の1951年には事務所を株式会社にして、組織設計事務所を運営することに専念したようです(アメリカ進駐軍の仕事をすることによって大所帯となり、現在の「大手」設計事務所となったひとつです)。「分離派建築会」が理想として掲げた西欧的建築家像の確立とは 正反対の道を歩んだと言えます。

建築家のプロフェッション

 さて、「建築家のプロフェション」ということを、しばしば私は書きますが、その原理的なことは「何をプロフェスするのか」を読んでいただくとして、今回はもっと具体的な事象について書いておきましょう。建築、建設関係の人でなく、設計事務所に設計を依頼したこともない方々は ご存知ないかもしれませんが、建築家は 医者や弁護士と同じように「先生」と呼ばれます。大学時代には そんなことを知らなかった建築学生が、設計事務所に就職して現場に出ると、工事業者から「先生」と呼ばれて驚く人も多いかもしれません。しかし同じように建築設計の仕事に従事していながら、建設会社の設計部に就職した人は「先生」とは呼ばれません。それは何故か、ということを最近の多くの建築家は知らないらしいのです。それは、設計事務所のスタッフのほうがゼネコンの設計部の人間よりも博識で優秀であるから、というわけではありません。

 日本では 大学で優秀な成績をとった学生が大企業に就職するという慣行ができあがってしまい、建築の設計分野においてさえ、優秀な学生が設計事務所よりも給与水準の高い大手建設会社を就職先に選ぶというケースが多くなりましたから、建築家およびその設計事務所のスタッフが、建設業設計部よりも常に優秀というわけではなくなりました。
 それでもなお、建築家とそのパートナーが「先生」と呼ばれるのは、それがプロフェッション(献職)であるからです。(あるいは、「プロフェッションであるべきだからです」と言ったほうが良いかもしれませんが。)

 世の中には「先生」と呼ばれる職業があるのは、誰でも知っています。その筆頭は学校の教師です。小学校から始まり大学の教員に至るまで「先生」と呼ばれます。そこから、人にものを教えるのが「先生」だという観念が、子供のときから頭に形成されます。そこで 小説家の埴谷雄高は「先生」と呼ばれるたびに、「私は学校で教師として教えたことはないので、先生と呼んではいけない」と常に言っていたそうです。しかし伝統的に、「先生」という呼称は他の職業にも使われます。まず医師です。たとえ「この人はヤブ医者ではないか」と思っていても、「先生」と呼ぶのが普通です。次に、政治家も「先生」と呼ばれます。さらに、弁護士、公認会計士などもそうです。

 これらの職業の人たちが「先生」と呼ばれるのは、それが「プロフェッション(献職)」であるからです。「プロフェッション」というのは、高度な専門的知識や技能をもって、私利私欲のためではなく、社会公共のために尽くす職業のことを言います。単なる「ジョブ」や「オキュペイション」ではない、社会への献身が求められる職業が「プロフェッション」です。(その語源から派生する原理的なことは、『原術へ』のなかの「何をプロフェスするのか」に詳しく書きましたので、それをお読みください。)

 営利企業に属する人たちは、どんなにレベルの高い知識や技能をもっていても、「先生」とは呼ばれません。新聞や放送のニュースにおいて、ある事件に対する識者の意見が紹介される時には、プロフェッションの人(「先生」)が登場するのが普通で、営利企業(株式会社)の社長や社員が出てこないのは、そのためです。どんなに立派な意見が開陳されても、それは所詮「業者」の意見であり、会社の利益のための主張であろう、と 見なされてしまうからです。

 こうして、「プロフェッション」であるべき建築家とそのパートナーたちは、世の中から、医師や弁護士と同じように「先生」と呼ばれるのです。ところが、世界の異端児である日本の建築界は 堕落の一途をたどり、大・中規模の設計事務所のほとんどが「株式会社」の形態をとるようになってしまったのです。こんな国は、日本以外に、世界のどこにも ありません。営利法人としての株式会社の社長は、プロフェッションとしての「建築家」とは言えません。建設会社の設計部と同じく「設計業者」です。諸外国にくらべて 日本における 建築家の社会的地位が低いのは、大多数の設計事務所が 営利企業(株式会社)としての「設計業者」になってしまったからです。

 建築家が 営利企業としての「設計業者」になってしまえば、もはや「先生」と呼ばれる いわれは ありません。それでもまだ 世の中では「建築家はプロフェッションであるべきだ」という原則論、あるいは 願いをこめて「先生」と呼んでくれているのです。(ゼネコンの人たちは、「(株)〇〇設計」の人たちを、心の中では軽蔑しながら、「先生」と呼んでいるのかもしれませんが。)

日本建築家協会

 日本建築家協会の会長だった人の何人かに、私の論文「何をプロフェスするのか」や「あいまいな日本の建築家」を送ったこともありますが、彼らは何の反応もしません。それどころか、建築家協会の会員建築家の事務所の株式会社化を推し進め、ついにはゼネコン設計部の人たちと同一化して「建築士」の資格だけで くくろうとしているかに見えます(今に「日本建築士協会」と改名するつもりかもしれません)。かつて 西欧的な建築家(アーキテクト)の制度を確立しようと戦ってきた 先人たちを裏切って、「歌を忘れたカナリヤ」になったとしか思えません。けれども、その先人たちも、設計事務所の「株式会社化」の責任を負っています。私の尊敬おくあたわざる前川国男(1905−1986)でさえも、戦後 田中角栄らの議員立法により、建築家の理念と真っ向から対立する「建築士法」が成立してしまったあと、彼自身の事務所を、税理士に勧められて 税法上の利点から、「株式会社・前川國男 建築設計事務所」としてしまったのです。その悪影響については、「あいまいな日本の建築家」への「追補3」の中に次のように書きました。

 「建築家のプロフェッションの確立のために 最大の寄与をした 前川国男氏でさえも、戦後まもなく 建築士法が成立した時に、単なる税法上の実利から(税理士に勧められて)、前川国男建築設計事務所を 株式会社として、事務所登録 してしまいました(「伊東忠太の失敗」と並ぶ、「前川国男の失敗」 と言うべきです)。そこから巣立った 錚々たる建築家たちは、古巣が そうであったのだから、独立時に何の疑問もなく、新しく設立する自分の事務所を 株式会社にしてしまいました。そこから巣立った建築家たちも・・・・ 以下同様で、しかも 現在の日本建築家協会は、さらに それを(設計事務所の株式会社化を)推し進めてきたのですから、「業者扱い」や「設計入札」に、苦情を言うことなど できません。」

 「実利」よりも「理念」を尊重してきたはずの前川氏が、それと正反対のことを してしまったのですから、重大な「前川国男の失敗」と言わねばなりません。

前川国男  坂倉準三
前川国男          坂倉準三

 しかし、そうであってはならない という姿勢を貫いた建築家も いました。前川国男と同じく ル・コルビュジエのアトリエで修行した 坂倉準三(1901−1969)です。建築家の 事務所が 営利企業としての株式会社となるのは間違いだ、という信念を 生涯 貫きました(株式会社 社長としての ル・コルビュジエ など 考えられますか?)。 坂倉氏が1969年に没したときに、あとに残された面々が、自分たちの居場所を確保するために、氏の意思に反して「坂倉準三建築研究所」を株式会社にしてしまい、「株式会社・坂倉建築研究所」として存続させたのでした。私は坂倉氏よりも前川氏のほうを 建築家としては 高く評価していますが、この点だけは、坂倉準三のほうが 立派であったと言わざるをえません。

 そもそも建築家の個人名を冠した設計事務所というものは、その建築家の 志を実現するために設立したものなのですから、その建築家が他界したら その事務所は、それまでの作品のメンテナンスをするスタッフだけを残して、消滅すべきものでしょう。
 かつて アメリカに イーロ・サーリネン(1910−1962) という天才的建築家がいて、わずか 51歳の若さで死去してしまいましたが、数々の傑作を実現して 世界から賞賛され、同世代のライバルであった 丹下健三(1913−2005)にも 種々の影響を与えました。サーリネンが没すると、事務所のチーフ・アーキテクトであったケヴィン・ローチは、進行中であった設計・監理の仕事を 数年かかって終了させると、サーリネン事務所を閉じるとともに、その多くのスタッフを引きとって ケヴィン・ローチ自身の設計事務所を設立しました。 建築家の事務所というのは、そのように あるべきだと思います。   ( 2017 /03/ 01 )


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