BARON'S PALACE in CAIRO
カイロのバロン宮殿
神谷武夫

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カイロのヒンドゥ建築

 カイロの国際空港から市内に向かう途中、幹線道路に面した広い敷地に、インドの ヒンドゥ寺院のような石造建築が建っているのが 人々の目をひきます。 インドの寺院建築に特有の シカラが高く立ち上がり、頂部にはアーマラカと その上のカラシャを戴いています。 スタイルとしては カジュラーホ型のシカラですが、しかし四方に開口部を何段にも開き、バルコニー状にしているのは、ジャイナ教の四面堂の趣です (ラーナクプルの アーディナータ寺院の中央祠堂 と比較してみてください)。 それを支えるヤーリ (ライオンのような空想上の動物) の彫刻などは本格派で、インドのものに比べて遜色がありません。
 メイン・エントランスまわりは カンボジアのクメール様式のディテールや彫刻で飾られていて、インドのチャイティヤ・アーチも見られます。 一方、反対側の屋上には ドーム屋根が載っていて、その下部にはビジャープル風の 蓮の花弁の飾りがあり、英領時代の 「インド・サラセン様式」 を思い出させます (まうしろから見ると、このドームは一方にのみあって 他方にないので、全体が未完成のような印象も与えますが)。


バロン宮殿 西面

 カジュラーホ型のシカラと インド・サラセン様式のドーム屋根とは 奇妙な組み合わせですが、他にも古代仏教寺院や カンボジアのアンコール・ワットなども装飾モチーフにされていて、20世紀初頭のオリエンタリズムの一大饗宴といったところです。
 しかし、エジプトの石造建築とはまるで異なった、木造架構的な石造建築を すべてインド風のディテールと彫刻でつくりあげている腕は、なかなか見事なものです。 全体が黄土色一色であることと相まって、様式混交的な建物であるにもかかわらず、それほどキッチュな感じを与えず、むしろ本格派の建築の趣さえ備えています。 おそらく伝統的な職人や彫刻家を インドやインドネシアから連れてきて建てたのでしょう。

 それにしても、エジプトには まったく場ちがいな形態の建物を、いったい誰が、何のために建てたのでしょうか。 調べて見ると、実はこれはヒンドゥ寺院ではなく、20世紀初頭の住宅だったのです。 しかも設計したのは、アレクサンドル・マルセル (1860〜1928) という、フランス人の建築家だというのだから驚きです。

ヘリオポリス開発途上のバロン宮殿


エドワール・ルイ・ジョゼフ・アンパン

 この建物は現地では 「カスル・アル・バロン」 と呼ばれていて、英語では BARON’S PALACE と訳されています。 バロンとは人の名ではなく男爵のことなので、本来はその男爵の名をとって「アンパン宮殿」と呼ぶべきなのでしょうが、カイロの人々は 「バロン」 を特定の人物をさす固有名詞のように扱ったようです。 したがって ここでも 「バロン宮殿」 と呼ぶことにします。
 その特定の人物とは、ベルギーの実業家の エドワール・ルイ・ジョゼフ・アンパン (1852〜1929) で、一代にして銀行、電気、電話、鉄道、都市開発の事業で 国際的に大成功をおさめた人物です (今ならグローバル・マルチ・ベンチャー企業というところ)。 パリの地下鉄建設に果たした業績のゆえに、フランス政府から男爵の爵位を贈られたのです。 そのアンパン男爵が 1900年頃にエジプトの鉄道や電話網建設のためにカイロを訪れると すっかりこの地域に魅せられ、ナポレオンのあとを継ぐ エジプト愛好家となりました。


バロン宮殿 上層

 1904年にカイロ北東部の砂漠に 6,000エーカー (2,400ヘクタール) の土地を買うと、ここに新しいカイロとしての近代的な田園都市を計画し、1907年に建設を開始しました。 ちょうど インドの デリーに対する ニューデリー (この6年後に建設開始) に相当する地域です。 混沌とした旧市街と対照的に、広い道路を整然と通し、建物をゆったりと配して、「ヘリオポリス」 (太陽の都) と名づけました。 現在はカイロの一部ですが、20世紀のカイロの都市発展にとって、ヘリオポリス地区は大きな役割を果たしました。 後にその東北端に カイロ国際空港がつくられために、外国からの訪問者は必ずこの地区を通り抜けていくので、ヘリオポリスはカイロの顔となっています。

 そのヘリオポリスの建設を推し進めていた1907年、彼は新都市の中央部に 大邸宅を建てることとし、その設計をフランスの建築家、アレクサンドル・マルセルに依頼したのです。 新都市のホテルに宿泊する、外国からの賓客たちを招いてパーティを催す 公邸のような役割をもった邸宅で、広大な敷地にさまざまな施設と庭園をしつらえ、家の中にはエレベーターを 2台備えたといいます。
 そのバロン宮殿のデザインが、インドのヒンドゥ寺院風になったのは、どういうわけだったのでしょうか。


バロン宮殿 南面ファサード


オリエンタリスト、アレクサンドル・マルセル

 パリの地下鉄は、1900年のパリ万国博覧会の開催にあわせて建設されたものでしたが、この万博において話題をよんだのは 「世界の旅」 と題するパビリオンで、それはインドのヒンドゥ建築や ビルマのパゴダ、日本の五重塔などを結合したエキゾチックな大建築でした。 これを設計したのが アレクサンドル・マルセルです。 ロンドンの第 1回万博 (1851年) 以来の東洋の文物への興味は ますます刺激され、べルギーの国王 レオポルト 2世は、自身のラーケン王宮の庭園に オリエンタルなパビリオンを配することを望むと、パリ万博の マルセルによる五重塔を買い取って王宮に移築し、さらに中国風のパビリオンの設計を マルセルに依頼したのです。

   
マルセルが設計した ラーケン王宮のパビリオン群

 当時のヨーロッパ人にとって オリエントというのは、エジプト以東、極東の日本まで含む地域全部をさす習慣から抜けきっていませんでした。 そこでは中東からインド、中国までが ごっちゃになっていたので、エジプトに入れ込んでいたアンパン男爵も、カイロに建てる自身の邸宅を インド風にすることを望んだのです。 その設計をできるのは、やはりアレクサンドル・マルセルだったというわけです。
 マルセルは北インドの カプルターラにも マハーラージャの宮殿を設計していますが、これはオリエント風ではなく、逆に ヴェルサイユ宮殿とフォンテーヌブロー宮殿に範をとった 純フランス風の宮殿です。 カプルターラの藩王 ジャグジト・シングは ロンドンとパリで教育を受け、フランス文化に傾倒していたのでした。 マルセルはオリエンタリストでしたが、その守備範囲はインドや中国にとどまらず、全世界の建築様式に及んでいたようです。


カプルターラのヴェルサイユ風宮殿

 バロン宮殿は 1909年に建設を開始し、1911年に竣工したあと、男爵の死までの 20年間、カイロの社交界の中心地となりました。 その間、エジプト人がこの建物をどんな気持でながめていたのかは わかりませんが、話題性をもった宮殿建築としては大成功でした。 しかしアンパン没後、男爵家とカイロ政府との関係は悪化し、住み手が引き上げてしまうと、以後半世紀以上にわたって、宮殿は荒廃の一途をたどりました。 ジョルジュ・クロードによる インテリアの家具や備品は競売に付され、壁画は消され、鏡は はずされ、悪臭漂う コウモリの巣窟となり、はては麻薬の密売場となり、吸血鬼の館とまで あだ名されました。

 近年になって やっと建築の価値が見直され、ムバラク大統領夫人の掛け声で保存活動が始まりました。 1980年にはエジプトの文化財に指定されているので、そのうちに美術館か、あるいはエジプトの 「パンテオン」 になるのではないか と言われています。 内部まで一般公開される日も、そう遠くはないでしょう。

( 2006年 5月 25日 )



 

● このページを書いた 2日後の 5月 27日 早朝に、インドネシアのジャワ島で 大地震が起きました。 29日に確認された死者は すでに 5,000人を超え、負傷者は 1万人を超えたと伝えられますが、まだまだ増える見込みです。

ロロジョングランの シヴァ寺院
ロロ・ジョングラン寺院の シヴァ祠堂

 インドネシアにおけるヒンドゥ寺院 (チャンディ) の最高傑作、プランバナンにある ロロ・ジョングラン寺院 (チャンディ・ロロジョングラン) も被害をこうむったようです。 これは、当時のヒンドゥ教徒のピカタン王と、その妃の仏教徒・プラモダワルダーニが 856年に建立したと碑文にある大寺院で、曼荼羅のように配置された 大小 240の祠堂から成ります。 その中央部にはシヴァ祠堂、ヴィシュヌ祠堂、ブラフマー祠堂の 3棟が 高さ 20〜25メートルに聳えています。 今から 400年前の 16世紀末にも地震で大きな被害を受けましたが、近年すべて復原修理されて、ユネスコ世界遺産にも登録されていました。 今回の被害の詳細は まだわかりませんが、現在は人的被害の救済が急務です。 救援募金が始まりましたので、以下のサイトから、ぜひ義捐金をお寄せください。  (2006/05/29

日本赤十字社     日本ユニセフ協会     国際医療NGO AMDA

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