Appendix_(2003)
WILLIAM SIMPSON and HIMALAYA
TAKEO KAMIYA

William Simpson at old age

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CRIMEAN SIMPSON

It was the painter of 19th century, William Simpson (1823-99) that reported Himalayan architecture into Europe in detail for the first time. Having noticed his name several times in my book or web site, I would like to narrate here more of his life especially concerning Himalayan architecture. He was not only an excellent 'reportage painter', but a writer of a lot of treatises and books on architecture and archaeology.

「報道画家」 という耳慣れない言葉を用いたのは、現代なら 「報道写真家」 の果たすべき役割を 19世紀には画家が果たしていたのだが、とりわけ彼は Crimean War の現場からの報道で名をあげ、'Crimean Simpson' とまでうたわれたからである。 もちろん彼は 「報道」 のためにだけ絵を描いたわけではなく、William Hodges or Thomas and William Daniells に始まり Edward Lear に至る、India を描いた British landscape painters の系譜につらなり、おそらくその中では最も確かなデッサン力をもってインドの建築や風物を描いた人物である。

その生涯は世界の旅に明け暮れたといってもよく、19世紀の世界各地の戦争や事件に立ち会い、またイギリスやドイツの王室から親しく遇されてさまざまな記念式典にも列席した。 波乱万丈の生涯を送ったので、結婚して家庭をもったのは 57歳になってからであった。 一人娘の Ann Penelope Simpson のために書いた回想録は彼の没後に "The Autobiography of William Simpson, R.I." として出版され、そこにはそれらの出来事が生き生きとつづられている。
また RIBA (Royal Institute of British Architects) をはじめ、いくつもの協会や学会で論文を発表してもいるが、しかし彼は子供時代に正規の教育はほとんど受けていなかった。 まったく自由に生き、絵を描き、独学で学び、本を出版し、広く当時の世界に知られた人である。


Lake and Palace in Udaipur : William Simpson

彼は Scot で、やはり Scotch historian of architecture, James Fergusson より 15年遅く Glasgow で生まれた (のちに Fergusson とは親しく交わり、Indian architecture の理解について大きな影響を受けることになる)。 Sinpson の家はごく貧しく、学校に行けなかったので、正規の教育を受けたのは Perth の祖母の家に預けられていた 11歳の時からの 15ヵ月間のみであった。 14歳になると早くも Glasgow の Lithograph studio で徒弟奉公をすることになるが、これが後の彼の生涯の方向を決めることになった。

彼はそこで石版画の技術を身につける一方で、工房の近くにあったAndersonian University と機械技術学校の無料の公開講座に通って熱心に講義を聴き、図書館で本をむさぼり読んだ。 1838年から翌年にかけての冬には、同大学で建築と機械の製図法も学んだという。
1840年には Allan and Fergusson's atelier に移り、7年契約で徒弟修業をする。 その間、1845年からは新しくできた Glasgow School of Art の夜学に、働きながら通ってデザインを学んだ。 Charles Rennie Mackintosh が同校の学生となるよりも約 40年前のことである。 彼は食事代を節約した金で絵の具を買い、休みごとに野山に出かけて水彩画を描いたという。

1851年、27歳になると、より高度な技術を習得すべく地方都市の Glasgo から London に出る。 それはちょうど the first world's fair が開かれた年であって、London でも名高い Day and Sons' atelier に職を得た。 これは数年前に世を去っていた Day という人が始めた優秀な Lithograph studio で、その 3人の息子が共同で経営をしていた。 まだ写真製版のなかった時代、本や雑誌の挿図は etching から Lithograph へと移り、その全盛時代を迎えていた (この 20年後には wood carving に取ってかわられるのだが)。 この年は world's fair がらみの仕事で Day and sons' も多忙をきわめていた。


"Visions of India" edited by Mildred Archer, 1986

石版画の技術と水彩画の腕を大いに上げた Simpson に転機がやってきたのは 1835年に起きた Crimean War である。 これは中東と Balkan Peninsula の領有権をめぐって、南下政策をとる Russia と、それを阻もうとする Britain, France and the Ottoman Empire 連合軍との 3年にわわる大戦争であった。 1854年に参戦した Britain が黒海に艦隊を派遣すると、通信社の Colnaghi 社は、Day and sons' 社の助言によって、現地からのルポを絵にすることのできる画家として Simpson に Crimea 行きを依頼した。

彼はこのチャンスを逃さず、その年の冬から 1年間にわたって Crimean Peninsula に駐在し、砲弾の間をかいくぐり抜けながら現地の戦場のありさまを British newspapers に送り続けた。この戦争は看護学の Florence Nightingale の活躍や "Sevastopol Story" written by Lev Tolstoi を生んだが、また Simpson を 20世紀の報道写真家 Robert Capa のような the 19th century の戦場の画家として有名にした。 帰国後に 80枚の絵を Crimean War の記録として、Day and sons' 社の lithograph により Colnaghi 社から出版すると好評を博し、その業績によって英王室、なかんずく Queen Victoria からも仕事の依頼がくるようになる。


LOST GREAT DRAWINGS OF INDIA

Crimean War に次いで Britain が直面した戦争は India の内乱であった。 インド雇兵 (sipahi) の反乱を契機に Mogul Emperor をかついだインド軍と農民が、支配者である the East India Company に反旗をひるがえした "Mutiny" である。 これは 1857年から 2年間にわたって India 各地で続き、最終的に反乱は鎮圧されたものの、British 側にも大きな損害を出した。これを契機に the East India Company Co., Ltd は解体され、India は British government の直轄植民地となる。 Mutiny を切り抜けた Governor-General of India, Canning は、これ以後 "Viceroy of India" の称号ももつことになった。


Himachal Style of construction : William Simpson

Day and sons' 社は大反乱後の India の様子をビジュアルに Britain に報道することを企画し、 Simpson にその特派員となることを依頼する。 かねて Orient に興味を抱いていた Simpson は、これを機会に India で徹底的に取材旅行をし、その文化、地理、風俗、宗教をすべて絵にすることを計画する。

この 10年ほど前に、やはり Scotland 出身の画家 David Roberts がキリスト教の生誕地である Palestine から Egypt にかけて大旅行をし (1838-39) その成果を "Holy Land" という大型 lithographs の画集全 5巻として出版を完了し、絶賛を博していた。 それは全部で 123枚の lithographs に手彩色をほどこした見事な画集で、lithograph 史上に残る傑作であった。 Simpson はこれに対抗意識をもち、その後の技術的進歩による chromolithography を用いて、全 250枚からなる India の大画集を作成しようと企てたのである。

India には 18世紀以来すでに多くの風景画家が渡っていて、そのエキゾチックな風物を water coloed, oil painting, lithograph, etcing, と多彩な手法で Britain に紹介していた。 旅行前に Simpson が最も参考にしたのは、Thomas and William という叔父と甥の関係の二人の Daniells による "Oriental Scenery" 全 6巻、144枚からなる aquatint による銅版画集であった (published in 1795-1803). これは 18世紀末の India の遺跡や建築や風物を伝える貴重な画集ではあったが、後に Edward Lear が批判したように、全体として沈鬱で生気に乏しい生硬な絵であった。 画才ははるかに Simpson に豊富であったと言えよう。


Children sleeping out of doors : William Simpson

1859年 10月、Calcutta に上陸した Simpson は以後 2年半の長きにわたって India に滞在をし、sketchbook に建築や遺跡、町並みや人々の姿など、India のあらゆる形象を倦むことなく描き続けた。 当時開通したばかりの鉄道で Delhi に行って Govenor-General of India, Canning and his wife に会い、総督の公式行事には常に立ち会ってその場面を描くとともに、絵画好きの Lady Canning の絵の先生ともなった。

Governor-General の庇護の下、まだ交通不便だった時代に、Indians にかつがせた "dooly" (平台の籠)に乗って奥地まで探検しては、British が初めて目にする地の建築や風物を、彼の言葉によれば 'True India' として描いた。
India 滞在中に 2回迎えた夏は、耐え難い暑さの平原を逃れて夏の首都 Shimla に赴いた。 Shimla を囲む Himalaya の自然と木造建築は大いに Simpson の気に入り、さらに Himalaya の奥深くへと旅することを望んだ。 折よく Captain Evans の一行が Satlej valley の Chini (current Kalpa) まで遠征するのに加えてもらい、ここに初めて Sarahan その他の Himachal architecture が多数の sketch に残されたのである。

1862年に England に帰国すると、India で描きためた sketch をもとに本格的な水彩画の作品を制作し始める。 全 250枚を描くのに 4years かかったが, それらを順次 Day and Sons' 社に渡して chromolithograph による全 4巻の画集を作る準備をしていた。
ところが、神は Simpson に微笑まなかった。 Day and Sons' の経営状態はこの間にすっかり悪化していて、ついに破産してしまうのである。 Simpson の絵は会社の財産として、すべて借金のかたに売り払われてしまった。 Thomas and William Daniells' "Oriental Scenery" や David Roberts' "Holy Land" をもしのぐはずの大画集の出版計画は あえなく潰 えてしまった。 Simpson 39歳の時である。


Worship of the Devi at Kothi : Wiiliam Simpson

250枚の水彩画の内、すでに 50枚だけは lithograph になっていたので, これが “India Ancient and Modern” として 2巻本の大型画集として出版されることになった。 しかし、すでに腕のよい lithograph 職人が Daya and Sons' 社を去っていったあとなので, それらの品質は Simpson の満足するところではなかった。 6年半にわたる取材と制作, それに費用がほとんど無に帰してしまったと、Simpson の嘆きは深かった。 それはまた私を含む後の人々の嘆きでもある。 この大画集が当初の計画どおりに実現していれば、Simpson の名声がとみに高まったばかりでなく、India of the 19th century を描いた絵画群にどれだけ大きな財産を付け加えていただろうか。 私はそうした風景画家群の中で、最も Simpson の才能を惜しむ者である。


TRAVELS IN THE HIMALAYAS

一度は意気消沈した Simpson であったが、まもなく新しい仕事の依頼主が現れる。 グラフ雑誌の草分けで、当時は週刊だった Illustrated London News である。 仕事は Prince of Wales が Russia の Petersburg に行って、後の皇帝Aleksandr III の結婚式に出席するのを絵にしてくることだった。 親しくなった皇太子からは Moscow 行きにも同行を求められ, Klemlin 宮殿に泊って内部のスケッチもした。 これを皮切りに, 世界各地で事件や式典があるごとに同誌からフリーランスの報道画家として派遣され、Simpson の絵は小口木版となって誌面を飾ることになる。

1868年には Abyssinian (Ethiopian) War の取材に行き、翌年にかけて Egypt から Turkey を旅する。 Suez Canal の開通式にも出席した。 その夏には同誌の永久スタッフとなり、1869年末から Rome で the Vatican Council の取材、1871年には普仏戦争、そして Paris Commune の取材に行って、市民軍の側から革命の実相を絵にして伝える。 その翌年には皇太子が清国皇帝の結婚式に列席するのを取材することになり、それを機に世界一周旅行を企てる。

中国を主とするこの世界旅行の通信は 2年後に "Meeting the Sun" という 2巻の本にまとめられて出版された。そしてこの本の口絵には、なんと富士山の絵が掲げられている。 中国のあと、日本に寄ってから America に渡ったのである。 長崎から神戸、東京、鎌倉と 1ヵ月間日本に滞在した観察記録が興味深い。 時は明治 6年、Josiah Conder の来日よりも 4年前のことであった。


Fujiyama in Japan : William Simpson

一方、最初のインド旅行のあとで建築史家 Fergusson と知り合うと、Fergusson は彼の旅行地に大いに興味を示し、とりわけ Himalaya and Kashmir 地方のスケッチにインド建築史の資料価値を認め、Simpson の体験を RIBA (Royal Institute of British Architects) で報告するように勧めた。 これ以後 Simpson はたびたび RIBA や RAS (Royal Asiatic Society) で研究報告をし、その紀要に論文を載せるようになる。

また、画集のほかに自伝を含め 4冊の本を書いているが、ずっと後に America で復刻版まで出たのは "The Buddhist Praying-Wheel" という本である。 「仏教の」 と題名にあるが、内容は 'mani' wheel of Tibettan Buddhism から始めて世界のさまざまな宗教における円形モチーフのもつシンボリックな意味を、太陽に起源を求めて探究した書である。


Restrated Elevation of the Ahin Posh Tope : Wiiliam Simpson

インド圏への旅は全部で 4回おこなった。 第 2回目は 1875年から 76年にかけて, 皇太子のインド行に同行してのもので、Nepal では皇太子とともに虎狩りもした。 第 3回目は 1878年から 79年にかけての Afgan War の取材時である。 これは後の America にとっての Vietnamese War のようなもので, Afganistan を支配しようとする Britan と Afgan guerrilla との戦いであった。 こうした取材旅行は晩年まで続いていくが, 彼は終生建築と考古学への関心が深く, 旅のあいまには常に遺跡や古建築を訪ねた。 Afganistan では Jellalabad の近くに Stupa of Ahin Posh を見つけ, 軍の協力を受けて発掘調査をした。 中心部からは遺骨と貨幣の入った舎利容器を見出し, 帰国後に Stupa の復原図も作成している。


The Temple of Chrgaon drawn by Simpson about 150 years ago
(from "Architecture in the Himalayas" by William Simpson, 1883)

彼が書いた多くの論文の中で最も力がはいっているのは、RIBA の紀要に発表した "Origin and Mutation in Indian and Eastern Architecture" であろうが、私には "Architecture in the Himalayas" が一番面白い。 最初のインド滞在時に 6ヵ月ずつ 2回 Himalaya 地方へ行き、一度は Shimla から Chini (now, Kalpa) まで Captain Evans の一行と 3ヵ月の遠征をした時の観察が語られ、 Himalayan architecture の清書された sketch 集が添えられている。 中でも見事なのが Satlej valley の Chergaon に建つ寺院の sketch であって、これは revised edition of Fergusson's "History of Indian and Eastern Architecture" にも複写されたので広く人々に知られた。 その 'picturesque' 姿は、Himachal architecture の最高傑作のひとつに数えられる。


Maheshwara Temple at Sungra

ところが、その後現在に至るまで出版されたすべての Himachal architecture に関する書籍には、ただの一枚もこの寺院の写真が載っていず、Chergaon の寺院が作例として挙げられる時には、この Simpson の sketch が転載されるのを常としてきた。 まるでこの寺院はすでに存在しないとでもいうように。
私は Simpson の旅程を考え合わせながら調べた結果、これは現在の Sungra にある Maheshwara Temple のことであろうと推測し、"Wooden Architecture of India" を雑誌に連載した時にもそう書いたのである。 Simpson の約 50年後に Shimla から Shrinagar までの大調査旅行をした A.H. Francke の本にもこの Sungra の写真が載っているだけで Chergaon への言及はないので、その裏づけになると思われた。

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Temple at Sungra photographed by Franche 100 years ago and current state

それでもなお、疑問がついてまわった。 Sungra の寺院では壁面全体が木彫パネルで覆われているのに、Simpson の sketch にはそれがないし、全体のプロポーションもわずかに違っているように思われた。 それに、Chergaon が Sungra の古名であるという話も聞かないからである。 そして Mildred Archer の本の中にもう一枚の Chergaon の sketch を見つけた時、その疑いは一層拡大した。


Temple at Chergaon sketched by Simpson in 1860
( from "Visions of India" by Mildred Archer, 1986, London )

それは Simpson が現地で sketch したもので, 前記のものはあとでそれを清書したものだとわかった。 ところが現地の sketch では、この複合型の寺院の真うしろに角塔型の bhandar が建っているではないか。 Sungra では地形上、寺院のうしろはすぐに深い谷になっていて、bhandar が建つ余地はない。 それでは、Chergaon と Sungra とはやはり別の寺院だったのだろうか、それとも Simpson が戯れに、別の地の建物を一枚の sketch にまとめてしまったのだろうかと思い悩んだ。 幻の Chergaon は、もう失われてしまって、存在しないのかもしれないと。


REDISCOVERED CHERGAON

前から気になっていたのだが、地図で見ると Rohru の東方、Pabar 川の上流に Chergaon という小さな町がある。 もしかすると Simpson が訪ねた Chergaon というのは、この Chirgaon ではなかろうかとも思われた。 ずっと抱いていたこの疑問を解くために、今回はChirgaon まで足を伸ばしてみた。 しかし誰に尋いても、この町にそんな寺院はないという。 やはりあれは幻の Chergaon であったかと思ってあきらめかけていると、一人の男が、その寺院ならこの近くの山の上にあると言う。 かつは驚き、かつは喜んで、私はすぐに jeep を走らせた。

ところが山を登り始めると たちまち舗装のない悪路となり、あまりの悪路に jeep はなかなか先へ進めない。 太陽は山の向こうに隠れてしまい、暗くなる一方である。 果たして明るいうちに着くことができるだろうかと、手に汗を握りながら、たまに出会う人に路を尋ねつつ のろのろと進んでいくと、途中の山上の村に立派な角塔型の寺院塔が見え、一層期待感を強めた。


Village and Temple at Devidar

しかし、さらに道を進んでも Simpson の寺院は見つからず、村人に案内を頼んで同行してもらうと、ほとんど真っ暗になりかけた頃に、結局先ほどの寺院、Devidhar 村の Kantu Dewta Temple に行き着いてしまった。 その都度 Simpson のスケッチを見せながら尋ねてきたのに、彼らにはあの複合型の寺院とこの角塔型の寺院が同じに見えるのだろうか。 幻の Chargaon はついに発見できずに終ってしまった。 この徒労感は、今回の旅で一番深かったものである。

さて、私が今回の旅に出かけた頃、やはり高木辛哉さんが Himachal 地方へと旅立ち、またまた 3ヵ月も現地を歩き回っていた。 そして帰国後に成果をきいたら、何と Chergaon の寺院をつきとめたのだという。 Pabar valley ではなく、Sungra に近い Satlej vallley の上方に、現在は Chagaon と呼ばれる村があり、そこに Simpson の sketch の寺院が建っていたというのである。 折しも祭礼の時で、広場に輪になって踊る人々の姿は、Simpson が Koti の寺院の祭礼風景を描いたものと全く同じである。


Maheshwara Temple at Chagaon

高木さんが村人に聞いた話では、同じスタイルの兄弟寺院が 3つあり、長兄寺院が Sungra, 次兄が Katgaon という村で (1971年に焼失して現在は再建したものがあるらしい)、末弟がこの Chagaon の寺院なのだという。 いずれも Maheshwara (Shiva) 神を祀っていて、屋根板から頂華までヒマラヤ杉で同じスタイルに作られているので、写真ならまだしも、寺院だけを描いた sketch では区別がつかないのである。

こうして、10年にわたって わだかまっていた疑問がやっと解けて、幻の Chergaon は現実のものとなり、Simpson の sketch が いかに正確なものであるかということが立証された。 今から 1世紀半も前に Simpson が描いた達者なスケッチどおりの現地の写真を見ると, 実に感無量である。

* * *

William Simpson は、「幻の大画集」 が実現しなかったために、India を描いた画家としては Thomas Daniel や William Hodges ほど有名ではない。 しかし建築に対する造詣の深さと確かなデッサン力によって、誰よりも正確に、かつ詩情豊かに India の建築や風物を描いた artist である。

1893年、Simpson が 70歳のときに Chicago で万国博覧会が開かれた。 若き Frank Lloyd Wright が日本建築の展示に衝撃を受けた万博である。 Simpson は Illustrated London News から取材行を依頼されたが、もう老年であったので, 医者から止められた。 これを機に、彼は肖像画家であった妻と一人娘の Ann Penelope と暮らす静かな余生を送り、1899年に 76歳で世を去った。 His tomb is in Highgate Cemetry in London where there is also the tomb of Karl Marx who had passed away 16 years before.



< BIBLIOGRAPHY >

BOOKS by William Simpson
THE SEAT OF THE WAR IN THE EAST : 2vols. 1855-56, Paul & Dominic Colnaghi, London
INDIA ANCIENT AND MODERN, A Series of Illustrations of the Country and People of India and Adjacent Territories, 2vols. 1867, Day & Son, London
MEETING THE SUN, A Journey All Round the World : 1874, Longmans, London
PICTURESQUE PEOPLE, being Groups from All Quarters of the Globe : 1876, W.W. Thompson, London
THE BUUDDHIST PRAYING-WHEEL, A Collection of Material Bearing upon the Symbolism of the Wheel : 1896, Macmillan, London
GLASGOW IN THE FORTIES : 1899, Morison Brothers, Glasgow
THE AUTOBIOGRAPHY OF WILLIAM SIMPSON, R. I. (Crimean Simpson) : George Eyre-Todd (ed.), 1903, T. Fisher Unwin, London

ARTICLES by William Simpson
On the Architecture of India : 1861-62, The R.I.B.A. transactions
Abyssinian Church Architecture : 1868-69, The R.I.B.A. transactions
On the Architecture of China : 1873-74, The R.I.B.A. transactions
Buddhist Architecture in the Jellalabad Valley : 1879-80, The R.I.B.A. transactions
The Buddhist Caves of Afghanistan : 1880 (?), Journal of the R.A.S.
Origin and Mutation in Indian and Eastern Architecture : 1881 (?) , The R.I.B.A. transactions, vol. VII. N.S

Architecture in the Himalayas : 1882-83, The R.I.B.A. transactions, Rep. 1970, Susil Gupta, New York
Punjabs in the Sutlej Valley : 1884, Journal of the R.A.S.
Costume and Jewellery Worn by Ladies of the Delhi Zenana : 1886, The Watchmaker, Jeweller and Silversmith
The Threefold Division of Temples : 1888, The R.I.B.A. transactions
Some Suggestions of Origin in Indian Architecture : 1890 (?), Journal of the R.A.S. vol XX. part 1.
Classical Influence in the Architecture of the Indus Region and Afghanistan : 1894, The R.I.B.A. transactions
The Bamian Statues and Caves : 1894, The R.I.B.A. transactions
The Orientation or Direction of Temples : 1897, The transactions of Quatuor Coronati Lodge
Abyssinian Church Architecture : 1898, Architectural Review

REFERENCE BOOKS on William Simpson
VISIONS OF INDIA, The Sketchbooks of William Simpson 1859-62 : Mildred Archer (ed.), 1986, Phaidon Press, London
SCENIC SPLENDOURS, India Through the Printed Image : Pheroza Godrej and Pauline Rohatgi, 1989, The British Library, London; Arnold Publishers, New Delhi
UNDER THE INDIAN SUN, British Landscape Artists : Pauline Rohatgi, Pheroza Godrej (eds.), 1995, Marg Publications, Bombay


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