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"KALPA SUTRA" Jaina Manuscript |
![]() A-side manuscript of Kalpa Sutra
Miniature in Kalpa Sutra 'Change of the embryos'
ジャイナ教徒にとって 最も親しい お経というのは 『カルパ・スートラ』 ではあるまいか。 なぜなら、それは 開祖のマハーヴィーラの伝記であり、そこに 多数の絵が添えられた写本が多くつくられ、人々、特に子供の教化のために使われてきたので、ジャイナ教徒なら 誰もが 『カルパ・スートラ』 に親しみ、その細密画を通じて 開祖をイメージしているからである。
ジャイナ教には、ユダヤ教の 『旧約聖書』、キリスト教の 『新約聖書』、イスラーム教の 『クルアーン』 (コーラン) のような、一冊の 「聖書」 というものはない。 仏教における仏典の体系にも似て、さまざまな種類の 「経典の集成」 となる。 聖典の成立史は省略するが、ジャイナ教の聖典として通常準拠する 白衣派の聖典は、「シッダーンタ」 (悉檀多)、あるいは 「アーガマ」 (阿含) と称される。 その内容は 必ずしも一定していないが、おおむね次節に記す通りで、その数は伝統的に 45編と言われているものの、実際には 45〜50編ある。
A-side manuscript of Kalpa Sutra
Minature in a Kalpa Sura 'Birth of Mahavira'
そもそも、根本的な教義である 14編の 「プッヴァ」 は、まったく失われてしまった。 「プッヴァ (プールヴァ)」 というのは、マハーヴィーラが 自ら 弟子の学頭 (ガナダラ) たちに教えたものである。 それらは、現在に伝わる聖典群に 間接的に盛り込まれているはずだが、オリジナルの文献や知識は 失われているのである。
白衣派の伝承が伝えるところは、こうである。 バドラバーフは、マハーヴィーラの没後 94年に プラティシュターナプラで生まれた。 バラモンの家柄であったが、マハーヴィーラ没後 139年の 45歳のときに、ジャイナ教の アーリヤ・ヤショーバドラ師のもとに入門した。 すべてのアンガを学んで ケヴァリン (大智者) となり、マハーヴィーラ没後の 148年には阿闍梨となった。 同年に 教団長の サンブータヴィジャヤが世を去ると、その跡を継いで 6代目の教団長 (テーラ) になった。
Miniature in Kalpa Sutra 'Mahavira gives away his possessions'
ジャイナ教の聖典群は、仏教の聖典群と同じように ピダガ、あるいは ピタカ (蔵) と呼ばれることがある。 仏教では その全体を 経蔵、律蔵、論蔵に分類して、三蔵 (トリ ・ピタカ) と総称するが、ジャイナ教では 次の 6種に分類している。
このうち、D の 「チェーヤ・スッタ (チェーダ・スートラ) 」 に属する経典群は、僧の生活規定 および贖罪と懺悔の苦行に関する法規で、教団の戒律全般を扱っている。 チェーヤ (チェーダ) というのは 裁断という意味で、破戒者への罰則として、それまでの修行年間を 裁断・無効にすることから 名づけられたらしい。 次の 6編から成る。
![]() Miniature in Kalpa Sutra 'Mahavira in Palanquin leaves the House' このうち 4番目の 「アーヤーラ・ダサーオー」 は 「ダシャーシュルタ・スカンダ」 あるいは 「ダサー・カッパ・ヴァヴァハーラ」 とも呼ばれ、前述のように バドラバーフの著作だという伝承がある。 しかし その証拠はなく、またそのすべてに彼が関係したとは考えられない (ヴィンテルニッツ)。 これは全部で 10章から成るが、その内の第 6章、第 7章、第 8章の 3章が ひとくくりにされ、通常 『カルパ・スートラ』 と呼ばれているのである。 その章分けが示すように、もともとは 3つの異なった経典が合体したものなので、全体は 3部に分かれている。 『カルパ・スートラ』 の内容は次の通り。
第 1 部 (第 6章) は 「ジナ・チャリヤ (ジナ ・チャリタ) 」 この中では 第 3部が最も古く、教義の上からは このグループの中核をなすものである。 この部分があるので、『カルパ・スートラ』 は 「チェーヤ・スッタ」 に組み込まれているのだが、第 1、2部の ジナ (ティールタンカラ) の伝記というのは、教団の規律書である 「チェーヤ・スッタ」 の中では異質である。 これら 3部は 本来は別物であり、ジナの伝記は なんらかの偶然で、ここに組み込まれたものと考えられよう。
A-side Manuscript in Kalpa Sutra
Miniature in Kalpa Sutra 'Mahavira plucks out his Hair'
ジャイナ教美術の観点からは、 「チェーヤ・スッタ」 と言えば、何よりも第 1部、とりわけ第 1節の マハーヴィーラ伝をさすことが多い。 この部分のテキストが 『カルパ・スートラ』 全体の 6割近くを占め、第 1部の 「ジナ・チャリヤ」 に対しては その 8割近くを占めていて、大多数の細密画が、この 第 1節の マハーヴィーラ伝に充てられているからである。 テキスト上も、他のティールタンカラ伝は 付け足しに近く、マハーヴィーラ伝の内容を 簡略になぞっているにすぎない。 美術上 『カルパ・スートラ』 が重視されるのは、キリスト教の 『福音書』 や 仏教の 『ジャータカ (本生譚)』 のように、開祖の物語として絵画化されやすいからである。 (「ジャイナ教の建築」の)第 6章で書いたように、ジャイナ教の彫刻では ティールタンカラ像にまったく物語性を与えずに記号化してしまったが、それとは対照的に、『カルパ・スートラ』 の写本では、祖師の生涯が 一連の物語絵として描かれる。 マハーヴィーラの生涯は そのままジャイナ教の教えの真髄であるから、その一連の物語絵は 民衆の教化の材料となるし (とりわ け文盲の人や子供には)、また 画家の表現意欲の発揮場所でもあった。 (ただし、マハーヴィーラをはじめとする ティールタンカラたちの描かれ方は、彫刻の場合と同じように、直立姿勢か結跏趺坐像であることが多いが。)
12年にわたる苦行と黙想の後、悟りに達したマハーヴィーラは 勝者 (アルハット) となる。 全智となったマハーヴィーラは、インドラ神が用意した サマヴァサラナで教えを説く。 仏伝における ブッダの 「初転法輪」 に相当する。 ( from "Kalpa-Sutra" c.1475-1500, Detroit Institute of Art )
「スートラ」 というのは 「経 きょう 」 のことである。 原義は たて糸で、花を貫いて花輪とするように、教法を貫く綱要をも そう呼ぶようになった。 古代の 『ヴェーダ』 を伝承する綱要書で用いられた形式が 仏教やジャイナ教でも用いられ、その教理綱要書もまた そう呼ばれる。
ジャイナ教の経典においては、カルパというのは、「品行」 や 「礼節」、「徳行」、「責務」、「戒律」 を意味するようになった。 したがって カルパ・スートラというのは、僧の行動規範や戒律を定めた経典 ということになる。
「チェーヤ・スッタ (チェーダ・スートラ) 」 の第 5編も 『カルパ・スートラ』 であるが、バドラバーフの 『カルパ・スートラ』 と区別するために 「ブリハト・カルパ・スートラ」 (大カルパ・スートラ) ともいい、比丘と比丘尼の戒律に関する 主要経典であるという。 本来のカッパ (カルパ) は修道僧や修道尼に許された正当なことがらを集めたもの だという。 (ヴィンテルニッツ p.401 中野註)
Miniature of Kalpa Sutra 'Indrabhuti Gautama's Omniscience'
![]() B-side Manuscript of Kalpa Sutra
ジャイナ教では雨季の 6月に 8日間、盛大に行われる パリュシャナー祭の間、Kalpa Sutra が読誦される。 その期間は宗派によって異なるが (8日間から、最長 70日間)、パリュシャナーとは パッジョサマナーの転訛で、雨季あけを祝う祭礼である。 マハーヴィーラの伝記が この祭礼に読誦されることから、「サーマーヤーリー」 と一緒にされるように なったのかもしれない。 そして独立の 「経典 (スートラ) 」 とみなされるにつれ 『パリュシャナー・カルパ・スートラ』 と呼ばれたのが、単に 『カルパ・スートラ』 と略されるようになった。 (プラークリット語で 『カッパ・スッタ』 とは 言わないようであるが。)
バンダーラというのは、『砂漠の都市・ジャイサルメル』 の 「ジャイナ寺院」 の節に書いたように、古刹の寺院に付属する文書庫で、敬虔で裕福な信者が聖典の写本を作らせては奉納した。 名高いものでは パータン、キャンベイ、ジャイサルメル、アーブ山 などにおけるものがあり、異教徒による破壊や略奪から守るために その多くが地下に設けられ、そのおかげで 聖像や聖具とともに、貝葉や紙に書かれた多くの古写本が 現代にまで生き延びることができた。 特に ラーナクプルのバンダーラでは、北のマンダパの床石の一枚が 秘密の扉になっていて、ここから下に降りると 広大な地下室が伸び広がっているのを見て 驚いたことがある。
![]() A Secret Entrance to the Underground Bandara, Ranakpur
『カルパ・スートラ』 の第 1部 「ジナ・チャリタ」 には ティールタンカラたちの伝記が書かれていると述べたが、その記述の 8割は 第 1節のマハーヴィーラに充てられている。 マハーヴィーラは 24人目の、そして最後のティールタンカラであるから、彼の前にも 23人のティールタンカラがいたことになっている。 それらは (後世に成立したと考えられる) 伝説上の人物であるから、特段の物語があるわけではない。 したがって、その伝記は おおむねマハーヴィーラのそれを なぞるだけになるので、同じことを繰り返し書いても仕方がない。
ティールタンカラの生涯には 決まったパターンがあり、5つの主要なできごとを通して描かれ、それらが細密画の主題ともなる。 一番目は 「天界からの降下」、2番目は 「誕生」、3番目は 「出家」、4番目は 「成道」、そして 5番目が 「涅槃」 である。 仏教における仏伝と よく似ているが、各ジナの 天界からの降下が重視されるところが異なっている。 特にマハーヴィーラの場合には、後述のような、インドラ神の指図による 「胎児の交換」 というのが独特である。 ところで、マハーヴィーラの生涯を描いた 「経」 は、『カルパ・スートラ』 だけではない。 第 1アンガの 「アーヤーランガ・スッタ (アーチャーランガ・スートラ) の第 15講は マハーヴィーラ伝を簡潔に描いているし (ヤコービ 英訳)、また第 5アンガの 「バガヴァティー・ヴィヤーハパンナッティ」 (聖なる解説の教え) では、マハーヴィーラの生涯と行跡が 他のいかなる作品よりも、いっそう 生き生きと描かれている、という (ヴィンテルニッツ p.28)。
Miniature of Kalpa Sutra 'Kamatha's Five-fire Penance'
![]() B-side Manuscript of Kalpa Sutra
第 23代ティールタンカラ、つまりマハーヴィーラの一代前の パールシュヴァナータは、歴史上、実在の人物だとされる。 マハーヴィーラの両親は その教えを実践していた、いわば 「パールシュヴァ教徒」 だったとも言える。 とはいっても 彼が実際にどのような人間で、どのような人生を送ったのかについては 何も知られていないので、『カルパ・スートラ』 における記述としては、マハーヴィーラのそれに重ね合わせるほかはない。 すなわち 「天界からの降下」、「誕生」、「出家」、「成道」、そして「涅槃」 である。 そして彼については ある説話がうまれ、これが 彫刻であれ 絵画であれ文学であれ、常に彼のイコノグラフィーの中心をしめるようになった。 それは蛇 (コブラ) との関わりである。 蛇はキリスト教でも特別な扱いを受け、エデンの園で アダムとエヴァに知恵の木の実をさずけた、知能のある動物として描かれる。 インドでは ナーガと呼ばれ、水辺に住むことから、インドでは水辺が生命の源として神聖視されるので、ナーガ (龍王) もまた神力をもつ動物として描かれる。 これが中国に伝わると、龍 (ドラゴン) と同一化されることになる。
ジャイナ教の説話としての パールシュヴァ伝は、こうである。 彼の前世において、正と邪の 2つの種があって、邪はバラモンの苦行者 カマタとなり、正は王子 パールシュヴァとなった。 ある日 パールシュヴァは、カマタが 4つの火と太陽に焼かれる 「五火の受難」 にあっているのを見つける。 燃えている丸太の 1本には 蛇 (ナーガ) の家族が閉じ込められているのを見て、カマタの抗議にもかかわらず、パールシュヴァは 従者に丸太を割らせて 蛇の一家を助け出す。
Minaiature of Kalpa Sutra 'Parshvanatha as a Siddha'
B-side Manuscript of Kalpa Sutra
『カルパ・スートラ』 の第 2部 「テーラーヴァリー」 では、マハーヴィーラ没後の人脈が語られる。 まずマハーヴィーラの直弟子 (ガナダラ) 11人のリストがあげられるが、その筆頭が インドラブーティーである。 特に詳しく語られるわけではないので、他の経典や説話からの引用をもとにしながら、しばしば 彼の細密画が描かれる (5A)。 『カルパ・スートラ』 のテキストは プラークリット語で書かれている。 ジャイナ教の聖典語は アルダマーガディ語(半マガダ語、ジャイナ・プラ-クリット)と言い、雅語としての文語 サンスクリットに対して、各地で自然の変化をとりいれた民衆語であった。 マハーヴィーラやブッダが活動したマガダ国の方言を マーガディーと言うが、現存の聖典語は そうした古語そのものではなく、他の方言的要素をも含んでいるものなので、これをアルダ (半)マガダ語と呼ぶのである。 マハーヴィーラやブッダが説教に用いたのは、聖典が書かれているものよりも古い段階の 「古アルダ・マーガディー語」 であったと言われている。 そのために、ジャイナ教の聖典が書かれている言語は、マハーラーシュトリー語の影響も受けた、「ジャイナ・プラークリット語」 とも称される。
インドの古代、中世の経典というのは、宗教の如何をとわず、古くは 貝葉 (ばいよう)、あるいは 少数だが樺の樹皮に書き、それを紐でくくった。 貝葉というのは、まだ紙のなかった時代に、椰子の葉を短冊形に切ったもので、表面を平滑に均して文字を書いたのである。 短冊がばらばらにならないように、各短冊に一つあるいは二つの穴を開けて、ゆるく紐を通す。 短冊は細くて長い形をしている。 これをめくるには、左から右へでもなく 右から左へでもなく、下から上へとめくる。 したがって 裏面は、表面とは 天地逆に、文字や絵が描かれている。 (本稿では レコードのように、A面とB面 と呼ぶことにする。) そして 経典を保護するために、最初と最後に木の板で表紙をつけて、しばしば そこに絵を描くのである。
仏教の写本 (現代の模作)、カバーの板絵と 紙の本文。 Size=11×30cm たびたび書いてきたように、インド人は彫刻的民族であるので、彫刻作品は 古代から現代まで山のように制作されてきたが、絵画作品は まことに少ない。 古代では アジャンターの石窟に見事な壁画を残したにもかかわらず、その後のインド美術史では 近世におけるムガル朝とラージプートの細密画 (ミニアチュール) の時代を迎えるまで、絵画作品の少ないこと、まことに淋しい (ジャイナ教では、7世紀の シッタンナヴァーシャル の窟院の天井画が、かなり剥落しながらも わずかに残されているが)。
古代の石窟と 近世に盛んとなるミニアチュールの間を かろうじて埋めるのが、東インドの仏教経典と、西インドのジャイナ教経典の写本に描かれた細密画である。 (したがって ヒンドゥ教の神々の姿は、おびただしい数の彫刻に描かれているのに比して、絵画は 古代、中世を通じて ほとんど残存しないのである。 絵は貝葉や紙に描かれるので、石の彫刻に比べて滅しやすくは あったが。)
東インドの 仏教の貝葉写本、『八千頌般若経』 11世紀、大英図書館蔵 ( from "The Art of the Book in India" by Jeremiah P. Losty, 1982, British Library, London )
一方西インドでは、14世紀〜16世紀の グジャラートとラージャスターン地方で 多くの写本が制作された。 その最盛期は 15世紀後半である。 西インドで最も盛んとなった原因は、そこにジャイナ教徒が集中し、彼らは商人や金融業者となって裕福だったので、寺院に立派な 『カルパ・スートラ』 を献じるために、それら制作工房のパトロンとなったからである。 ジャイナ教の寺院建築が 西インドで最も発達したのと同じ理由である。
最初に貝葉に描かれたジャイナ教の細密画は、サラバイ・M・ナワブによると 1060年ということだが、細密画入りの 『カルパ・スートラ』 が 最初に制作されたのは、チャンドラマニ・シングによれば ずっと後の 1278年で、次の 1279年の写本と共に パータンの サンガヴィーナー・パーダーナのバンダールで発見された。 どちらも 後述の 「カーラカ師の物語 (カーラカーチャーリャ・カター)」 が一緒になっていて、そうした初期の写本では 細密画の数は 5、6点であったという。
さて、今回 このサイトに掲載した写本は、今から 20年ほど前に デリーの古美術商で購入した、『カルパ・スートラと カーラカーチャーリャ・カター』 の 8葉の写本断片である。 相当に古く、おそらく 1500年頃に制作されたのものと見なされる、ミュージアム・ピースである。
Comparison of two Miniaturs
今回の写本の縦横比が 2:5 とずいぶん横長なのは、もともと貝葉に描かれた時代の 材料的制約からきているだろう。 貝葉での縦横比は 1:5 から 1:7 、極端なものは 1:10 を超え、長さが 80cmに達するものもある。 写本の制作過程は、文字の線や 絵の具の重なり具合を検討すると わかる。 まず構図を決めて、細い線で区画する。 次いで 書家 (写字生)の僧が 経文のテキストを書き、後から 画家の僧が細密画を描いた。 欄外の 小さめの字の文は 最後に書かれたことがわかるが、プラークリット語が読めないので、その文節の役割は 不明である。 時として、書家と画家とが 同一人であることもあった。 ジャウンプルでは、ヒンドゥ教徒の画家が ジャイナ教の写本の細密画を描いた例もあるという。 しかしながら、仏教の写本もそうだが、寄進者の名は記されても、画家の名前が書かれることは 決してなかった。
各地のジャイナ・コミュニティで制作された 『カルパ・スートラ』 のうち、15、16世紀の西インドで制作されたものが最も有名なのは、その画風が洒脱であり、達者であり、ユーモアもあるからである。 また動きがあって、ダイナミックでもあった。
細密画を描く手順としては、まず絵に割り当てられたスペースに薄い金箔を貼る。その上に黒の細線で線画を描き、不透明の青、赤、白で彩色をする。残された部分が、金色の人体や その他のオブジェクトになるのである。
Kalpa Sutra from Mandu,1439, National Museum in Delhi ( from "The Art of the Book in India" by Jeremiah P. Losty, 1982, British Library, London ) 西インド様式は マンドゥや グヮーリオル、ジャウンプルなどにまで広まった。 最盛期の先頭を切ったのはマンドゥで、デリーの国立博物館にある 1439年の 『カルパ・スートラ』 と、おそらく同時期の 『カーラカーチャーリャ・カター』 (アフマダーバードのL.D.研究所蔵) では、テキストが 赤地の上に金文字で書かれ、細密画はステレオタイプでない、独自の画風を見せている。 最も華やかな 『カルパ・スートラ』 は、アフマダーバードの デーヴァサーノ・パード・バンダールで見出されたもので、現在はデリーの国立博物館にある。 制作は 1475年頃と言われ、ペルシアのティムール朝のミニアチュールの影響が認められる。
ところで これらの細密画は、必ずしも 『カルパ・スートラ』 のテキストの内容を 説明する絵ではない。 マハーヴィーラの誕生に関するエピソードを除けば、テキストは むしろ簡潔で、あまり詳しい物語にはなっていない。 しかし それでは絵にならないので、さまざまな説話を盛り込んで 細密画が描かれている。 したがって、絵は 絵としての独立した作品に近くなっている。 西インドがデリー・スルタン朝の支配下にはいると、ジャイナ寺院などで高度な建築の技術を達成していた建築家や石工のギルドは イスラーム政権のもとでモスクや墓廟をつくり、インド的なイスラーム建築、すなわちグジャラート様式を創りあげた。 それと同じように、西インドの細密画の伝統もまた インド・イスラームのミニアチュールを発展させるのに大いに貢献したことだろう。 近世の ラージプートやムガル朝のミニアチュールの隆盛は、そのようにして準備されていったのである。
Miniature of the "Story of Kalaka" c.1400, Western India サーハがモンゴル帽をかぶっているのは、ペルシアのミニアチュールの影響 ( from "The Art of India", Prince of Wales Museum of Western India, Mumbai )
『カルパ・スートラ』 は、「カーラカ師の物語 (カーラカーチャーリャ・カター) 」 と組み合わせられることが多い。 1巻の長さは、ワシントンのフリーア美術館蔵のものに例をとると、全部で 124葉 (40〜150) から成り、そこに 50点 (7〜125) の細密画が描かれている。 「カルパ・スートラ」 が 43点で、「カーラカーチャーリャ・カター」 が 7点である。 これが一冊の標準的な数量であろう。 全体の枚数は、各ページあたり 何行の本文が書かれているかによる。
Miniature of Kalaka 'Kalaka ask for help to Sahi' 『カルパ・スートラ』 と並んで、最も好まれた白衣派の説話は 『カーラカーチャーリャ・カター (カーラカ阿闍梨の物語)』 である。 アーチャーリャは阿闍梨 (あじゃり) 、カターは物語の意である。 しばしば 『カルパ・スートラ』 の付録のように扱われ、単独でより も 『カルパ・スートラ』 と一緒に写本が作られた。 そのひとつの原因は、前述のパリュシャナー祭 で 『カルパ・スートラ』 とともに朗誦されるからである。 というのも 6世紀に、パリュシャナー祭の行われる日付を 1日前倒しに変更したのが、このカーラカ阿闍梨だと 伝えられているからである。 しかしながら 歴史上、カーラカという人物は数人いて、それらが混同されて一つの物語になったらしい。 パリュシャナー祭の日取りが変更されたのは 6世紀であるが、西インドに サカ (シャカ) 族が侵入したのは 1世紀のことである。 『カーラカーチャーリャ・カター』 は、時には 「アーヤーラ・ダサーオ」 の第 9章とみなされる。 第 8章の 「サーマーヤーリー」 に ほとんど細密画がつかないので、そのかわりに この説話を組み込んで 「挿絵物語集」 とするのである。 両者がつなげられたのは 13世紀のことで、1250年から 1550年にかけて 多くの細密画が制作された。
しかし、これはあくまでも説話であって、聖典ではない。 さまざまなヴァージョンが サンスクリット語、プラークリット語、アパブランシャ語、古グジャラーティ語、古マールワーリ語などで書かれてきた。 一説には マヘーサラ・スーリが著者であるというが、著者 (語り手)も いろいろなので、その語りのスタイルも さまざまである。 とはいえ、全体の構成と主題は一定している。
1. グナーカラ師へのカーラカの入門。 ウジャインのよこしまな王 ガルダビッラとの対峙。
説話の内容は こうである。 バーラタヴァンシャ国の ダラヴァサの町に、王子カーラカがいた。 ある日 森の奥で グナカラ師がジャイナ哲学を説教しているのを聴いて 感銘を受け、両親の許しを得て入門する。 後に ウジャインに弟子をひきつれて滞在していたとき、妹のサラスヴァティーが、彼女に横恋慕したガルダビッラ王に拉致されてしまう。 カーラカの救助を求める嘆願に、王は耳を貸さない。 カーラカは 王の打倒を決意する。
Miniature of Kalaka 'Kalaka converts Bricks to Gold'
カーラカ師の物語 (金倉 p.37)
『カルパ・スートラ』 をはじめとする彩色画譜は、常につくられ続けてきた。 時代により、地方により、そのスタイルを変える。 特に インド独立以後は ヨーロッパ文明の影響が社会全体に及んだので、細密画のスタイルも ずいぶんと西洋的になった。 その多くは 子供向けの絵本や 教化のカード、そして室内に飾るための額絵である。
C2 Card Pictures of Today's 'Story of Mahavira' どちらも 「マハーヴィーラを産む前の 王妃トリシャラー」 の場面
● JAINA SUTRAS [The Sacred Books of the East 22.] : Hermann Jacobi (translated), 1884, Oxford University Press, reprint 1964, Motilal Banarsidass, 2vols., Delhi |