シャージャハーナーバード (現在のオールドデリー)の 1930年頃の地図
A Map of Shajahanabad in c.1930 (now Old Delhi)
(From "A Handbook for Travellers in India", 14th ed, John Murray, 1933)

デリー(シャージャハーナーバード)は 市壁で囲まれた扇状のプランをしていて、その要の位置(右上)にデリー城 (Red Fort) がある。城の左下にあるのが金曜モスク (Jami Masjid) で、城のデリー門と結んでいた。城のラホール門から左(マッカの方向)へ真っ直ぐに伸びる道が チャンドニ・チョーク大通りで、今もオールドデリーの中心繁華街である。 赤い部分が市街地で、黄色く囲まれた部分は当時のイギリスが占拠していた カントンメント(軍営都市)地区。川に面した城砦部を軍が管理し、その周囲にヨーロッパ人が住むホワイト・タウンがあり、さらにその先に現地人の居住区であるブラック・タウンがあるという、通常の植民都市と同じパターンを形成した。
イギリスは チャンドニ・チョーク大通りと平行に鉄道を通して 市の北部を分断し、中央にデリー駅を建設すると、その前面にクイーンズ庭園をつくった。次いで市壁の西側に、アーグラ、ボンベイ方向への鉄道を通すと、コノート・プレイス(広場)との間に ニューデリー駅をつくった。こうして、かつて四分庭園が連続していたところを、デリー駅の広大な線路用地にしてしまった。そのために、楽園をめざした シャー・ジャハーン帝の 緑園都市計画は すっかり崩れてしまった。