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THE DELHI SULTANATE
Delhi は歴史的に 「七つの都」 が重なった都市である. 最初のラールコートは現在の Delhi の南郊で, 土着のラージプート族による都市であった. 1192年にクトゥブ・アッディーン Aybak が, インド北部を征服すると, ここにあった都城キラー・ラーイ・ピトラを占拠し, 拡張した. 当時の年代記作者はこう記している. 「いたるところに吊るされた剣やその他の武器が, まばゆく光っているのを見た者は, 恐ろしさのあまり震えあがった. スルタンは金, そして象に破壊させたヒンドゥ寺院で得た石材を用いて, mosque を飾り, 壁いっぱいに 『コーラン』 の章句を刻ませた.
アフガニスタンの君主, ゴール朝のムハンマドの奴隷軍人出身でありながら, 北インドを支配する総督にまでなった野心家 Aybak は, 1206年にムハンマドが暗殺されると, 独立して王朝を建てた. 後継者にもトルコ系の奴隷軍人出身者が多かったので, 後世これを奴隷王朝とよぶ.
クトゥブ・アッディーン・アイバクはここに大 mosque を建設するにあたって, 単なる礼拝堂以上のものを建築家に期待した. 「イスラムの力」 を意味する Quwwat al Islam Mosque は, 日々, インドの hindus たちに, 「真の宗教」 であるイスラム教の優位を示す必要があったのである. この傲慢な Delhi 最初のスルタンは, 「クトゥブ・アッディーン (宗教の軸)」 という称号をもっていたので, このモスクを中心とする遺跡をも 「クトゥブ地区」 とよぶことになる.
Alai Darwaza of Qutub Mosque
CONSTRUCTION OF THE FIRST MOSQUE
やがてインド人は, アイバクがヤムナー河のほとりのこの町で, でどのような宗教政策をとるのかを知ることになる. ムスリムは, ヒンドゥ寺院のことを 「ブッダの家」 とよんでいたが, これを貶め, 27におよぶヒンドゥ寺院や, ジャイナ寺院を破壊したのである. あげくに, その暴挙をみずからたたえる碑文まで刻んでいる.
建築家たちは破壊された, ヴィシュヌ神に献じられた寺院の上に中庭をつくり, 列柱のある礼拝室を設計した. 建設資材, とくに柱として使う石材は, 破壊された寺院へ行けば, いくらでも手に入れることができた.
ヒンドゥ教徒と違って, ムスリムはいかなる偶像も彫刻したり, 描いたりすることはできない. 『コーラン』 で禁じられているので, 神はおろか人間や動物の像も造ることができなかった. このためモスクを建てる際には, 柱や梁はできるだけ生き物の像の彫られていないものが選ばれた. 表面にそれらが刻まれた石材は, 向きを変えたり, 目障りな彫刻を削り取ったりして使ったのである.
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Left: Cloister constructed with stones of destructed Temples
Right: Traditional corbelled Dome of the Cloister
LEARNING NEW TECHNOLOGIES
mosque の設計がまだ細部までできていなかった頃, Aybak は hindu の建築家や地元の工匠を多数登用して, mosque 建立の事業を推し進めることにした. インド北部はもとより, インドのどこの工匠と比べても, 彼らの技術力はきわめて高い水準にあった. 彼らはイスラムの mosque がもつ, 幾何学的な厳格さにまだあまりなじんではいなかったが, 新しい統治者の意向に添う建物をつくるべく努めた. しかし, それでも自分たちが慣れ親しんできた伝統様式を, 無意識のうちに出してしまいがちであった.
ヒンドゥの建築家を困惑させた要素がいくつかあった. まず第一に, 彼らが礼拝室の広さというものに慣れていないことだった. ヒンドゥ教徒は神と一対一で話すために寺院に出かけて行く. そのため, ヒンドゥ寺院ではさほど広いスペースを必要としないが, mosque は金曜日の集団礼拝時に大勢のムスリムを一度に収容できるよう, ずっと広大なつくりでなければならなかった.
次に問題なのは arch and dome である. 迫石を放射状に積んで大きなスパンを架け渡す, 「真のアーチ」 を知らなかったので, ヒンドゥの工匠たちはそれまでどおり水平に石を積んで, 上の石を少しずつ持ち出す擬似的な arch で形を真似た. dome もまた 「真のdome」 でなく, jaina and hindu temples に見られる, 伝統的な持ち出し構造によってつくった. それでは力学的に限界があるので, 小規模なもの以外のほとんどの arch and dome は崩壊して, 今は残っていない.
Around the mihrab of Tomb of Iletumish
インド・イスラムの最初の廟建築である, イレトゥミシュ廟が mosque の外側に建てられたのは, 1236年のことであるが, ここでもアーチは水平積みであり, ドーム屋根は崩壊してしまっている. けれども内壁に見られる唐草模様や蓮華の装飾には, インドの工匠たちの技量が十分に発揮されている. さらに, ナスヒー体の文字で刻まれた 『コーラン』 の章句は, 壁をおおう他のレリーフ彫刻と相まって, 丹念に編まれた織物のような印象を与える. インドにおけるレリーフ彫刻芸術の逸品といえるだろう.
SYMBOL OF THE EXPANDING ISLAMIC WORLD
Aybak はスルタンとなる前の 1199年に, 「神の影を東西世界に投影するために」, Qutub Minar の建設を命じた. minar というのはミナレットのことで, 本来はその上から日に 5回, 礼拝の呼びかけをするための塔である. しかし, この Qutub Minar は, アフガニスタンのジャームの塔をモデルにした, イスラムの勝利を記念する, 「勝利の塔」 であろう. じつに力強い, 堂々とした造形で, 今もインドで最も背の高い石造の塔である.
5層の高さは 72.5m に達し, 基部の直径は約 15m であるが, 最上部は直径が約 3m と細くなっている. ほぼ同じ頃, Spain のセビーリャの mosque には, これより少し高い塔が建てられた. のちに 「ヒラルダの塔」 とよばれることになるミナレットである. どちらも, 中世初期, イスラム勢力拡大の東西のシンボルであった.
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Soaring Qutub Minar
赤とベージュの砂岩でできた Qutub Minar の第 1層には, 半円形のリブと三角形のリブが交互にくりかえされているが, 第 2層には半円形のリブだけ, 第 3層には三角形のリブだけがつけられている. 諸処に "コーラン" の章句が刻まれた水平層がまわって, 装飾効果を高めている. 礼拝の時を告げ知らせるムアッジンが登ったバルコニーは, 鐘乳石紋の複雑な張り出し帯の上にある.
落雷で塔の最上部が壊れてから, トゥグルク朝のスルタン, フィーローズ・シャーが 1368年に第 4層を修理し, その上に 5層めを付け足して, 白大理石によるドーム屋根を架けた. しかし, のちに地震でこのドームが壊れたので, 19世紀に後期ムガル様式のドーム屋根がつくられた. ところが, イギリスのスミスという少佐によって付け足されたこの部分は, 建物全体とうまく調和していないという理由から, 結局 1848年に取り外され, 境内の芝生の上におろされたのだった.
PLAN of the third enlarged Quwwat al-Islam Mosque
(from "Architecture de l'Islam" by Henri Stierlin)
EXPANSIONS OF THE MOSQUE
Aybak に始まる奴隷王朝が 1290年に滅びた後も, Delhi にはトルコ系とアフガン系のイスラム王朝が継起して, 北インドを支配した. それら奴隷王朝からローディー朝までを 「デリーのスルタン朝」 と総称するが, Quwwat al Islam Mosque はつねに尊重され, 2回にわたる拡大をみた.
第 1次拡大は, 1211年に Aybak の後を継いだイレトゥミシュによって行われ, 平面的規模が 3倍以上となった. それまでは幅よりも奥行きの深い長方形であったものが, 幅広矩形のモスクへと転換し, Qutub Minar も, 境内に取り込まれたのである.
第 2次拡大は 1295年から 1315年にかけて, ハルジー朝のスルタン, アラー・アッディーンによって行われ, その規模は最初のモスクの, じつに 10倍に達した. これに合わせて 1311年には, 境内への南入り口にアラーイ門が建てられている. ここに初めて本格的なアーチとドームの建物が実現し, インドの工匠たちが, 外来のイスラム建築の技術に習熟したことを示している.
Base of unfinished Alai Minar
アラー・アッディーンは新しい中庭に, Qutub Minar に優る第二の塔を建ててイスラムの勝利を祝おうとしたが, 1316年に暗殺されてしまったために, 第 1層も完成しないうちに工事は中断されてしまった. そのAlai Minar の塔の基礎部分は赤砂岩でつくられ, 直径が 25m もあるので, 完成していれば 100m を超える高さとなったであろう. 不運のスルタンは, 彼がモスクの隣に建てたマドラサ (イスラムの高等教育機関), アラー・アッディーン学院の中に眠っている.
A HINDU IRON PILLAR
イスラムの栄光を宣揚するために造営された, Quwwat al Islam Mosque の境内には, ヒンドゥ教の忘れ形見ともいうべきものが残されている. 最初のモスクの中庭に, 4世紀に鍛造された, 高さ 7.2m の独立した鉄柱が立っているのである. その基部に刻まれた碑文によれば, この鉄柱は偉大な王, チャンドラを記念しているという. それがグプタ朝の, チャンドラグプタ 2世 (在位 375~413頃) のことであるのは間違いない.
Ancient Iron Pillar in the court of Quwwat al-Islam Mosque
この鉄柱が, 壊されたヴィシュヌ寺院で使われていたものかどうかは, 明らかでない. しかし柱頭に深いくぼみがあることから, ヴィシュヌ神が乗り物として利用したという, 鷲に似た伝説の巨鳥ガルダの像が載っていたと考えられる. おそらく, 柱はイスラムの侵入前にデリーまで運ばれてきたのであろう.
イスラム建築の中にあるこのヒンドゥの遺産は, 霊験あらたかなことで知られている. ここを訪れた者は柱に背を付け, 両腕を後ろに回してみる. 両手の指先が柱の後ろで合えば, その人の人生は良い星に恵まれる. すなわち, 幸福になれるというわけである.
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