インドの古都市図集 |
神谷武夫
『都市史図集』 1999年、彰国社刊
彰国社刊 『 都市史図集 』1999年
A 「 宗教都市(インド)」 61ページに図版、 207ページに説明
の3項を 神谷が書きました。
![]() 『都市史 図集』 彰国社、1999年、61ページ、「宗教都市」
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1(From A. Ghosh ”Nalanda” Archaeological Survey of India, 古代にインドの支配的宗教となった仏教は、僧院を中心として学問や芸術も大いに発展させた。各地にできた仏教センターのなかでも 最も大規模なのがナーランダーで、中国僧の玄奘も留学した「大学都市」であった。広大な土地の東側に、焼成レンガ造の 10の大僧院(ヴィハーラ)が ほぼ一列に並び、大通りをはさんだ西側には 礼拝所としての寺院や大ストゥーパが並ぶ。最盛期には 数千人の学僧がいたというから、彼らの生活を支えるための さまざまな都市施設が、おそらく木造や日乾しレンガ造で、中央大通りに沿って 建ち並んでいたろう。5〜12世紀に栄えたが、仏教の衰退とともに放棄され、廃墟となった。
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2(From Aagamoddharak Kanchansagarsuri , “Shri Shatrunjay 仏教と同時代、同地方に生まれたジャイナ教は、その最大の教義である アヒンサー(非殺生、非暴力)の徹底と 苦行主義を特徴とする。教徒は殺生を避けるため ほとんどが商業に従事し、その財で寺院を寄進するので、信者数に比べて 非常に多くの寺院を擁している。特異なのは、聖山の上に 数多くの寺院を建て、都市のような姿をとることである。そうした「山岳寺院都市」の代表が、西インドのパーリターナの町の近くの シャトルンジャヤ山である。ここには中世から近世にかけて 920にも及ぶ堂塔が 南北の峰とその間の谷部に建てられ、類のない都市景観を作っている。寺院以外に 住居も店舗もまったくなく、僧侶も巡礼者も 夜明けとともに山に登り、夕方に下山する。山道が危険な雨季には、閉ざされて ゴーストタウンとなる。寺院群は「トゥーク」と呼ばれるクラスターごとに 高い塀で囲まれ、要塞化している。南峰は 全体がひとつのトゥークを形成し、そのメインストリート沿いの街並みは、地中海の集落を思わせる。
![]() Taraporevala, Bombay, 1941, pl. LXXV) 南インドでは チョーラ朝が滅びたあと 寺院形式が大きく変わり、偉大な本堂(ヴィマーナ)が建てられなくなる。代わりに本堂を塀(プラーカーラ)で囲み、付属施設を建てては また塀で囲み、ついには 何重にも囲んだ塀の中に 街並みまで取り込んだ「寺院都市」をつくるに至った。高く要塞化した塀には 四方に出入り口が設けられ、ゴプラと呼ばれる寺門が建てられる。時代が下るほどに 外周壁もゴプラも高くなり、小さな本堂は 見えなくなる。そうした寺院都市の代表が ティルチラーパリの近くの シュリーランガムにある、ヴィシュヌ派のランガナータ寺院である。
![]() 4 (From「インド建築の5000年−変容する神話空間」, 世田谷美術館・展覧会カタログ, 1988, p.29) 寺院境内は 13世紀に始まって 今もなお拡大が続き、7重目の周壁の南ゴプラは 1987年に完成し、高さは 72mに達する。もともと イスラム勢力の南下に備えて 要塞化したのであろうが、周壁に囲まれた「都市」の大きさは 63ヘクタールもある。塀と同じように矩形をした道路は 両側に店舗や住居が並び、祭礼時の行列の 行進路の役割も果たした。大きな建物は 純然たる宗教建築ばかりでなく、住民のための集会や教育、音楽や舞踊の施設までを含んでいる。
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5 (Based on Anand Gauba, “Amritsar, a Study in Urban History”, シク教の総本山である ダルバール・サーヒブ(黄金寺院、ハリ・マンディル)のある聖都で、イスラム教徒にとってのメッカに相当する。それまでの小村が 第4代教主ラーム・ダースによって シク教の町とされ、寺院は 1577年に第5代アルジュンによって創建された。以後、寺院をとりまく「甘露の池」を意味するアムリタ・サロヴァルが町の名前となって発展し、黄金寺院を中心として 道路が放射状に通り、都市全体が市壁に囲まれた。1819年には 藩王ランジート・シングが市壁の西側に要塞を、北側にラーム庭園を造った。図は、シク王国がイギリスとの2度にわたるシク戦争に敗れて 植民地となった 1849年の状態を示す。
6 (From Ahmed Nazimuddin, “The Buildings of Khan Jahan in and ベンガル地方がイスラム圏になったのは 13世紀であったが、海側のスンダルバンの大湿地に 重要な都市がつくられたのは 15世紀前半である。イスラム神秘主義のスーフィー聖者でもあった 武将のハーン・ジャハーン・アリーが 配下の者を引きつれて入植し、ハリファターバードという町を開くと、交易都市として栄えた。ここには 360ものモスクが建立されて「モスク都市」とも呼ばれる 聖都となった。しかしハーン・ジャハーンが没すると 聖廟が建てられて巡礼地となったものの、町はさびれた。そしてバイラブ川が流れを変えると 港町としての機能も失い、今は 新しいバゲルハートの町の郊外の都市遺跡となっている。
7 (From S. Rajagopalan, “Old Goa”, Archaeological Survey of 1510年、ポルトガルの艦隊が ムスリムのゴアの町を破壊して占領し、ポルトガルの 対アジア貿易と キリスト教宣布の基地とした。マンドヴィ川に面する町は リスボンを模して再建されて「黄金のゴア (Goa Duorada)」とうたわれるほどに栄え、16世紀末には 60にも及ぶ教会堂や修道院を擁した。しかし 17世紀には コレラやマラリアに冒されて衰退し、町は8km離れた パナジに移された。廃都となったオールド・ゴアは ただ聖堂や修道院だけが残る 都市遺跡となったが、聖人に列せられたフランシスコ・ザビエルの遺体が ボム・ジェズ聖堂に安置されていて、今もインドにおける キリスト教の聖都となっている。
『都市史図集』 彰国社、1999年、61ページ、「伝統的都市ー1 北インド」
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1 (From Satish Grover, “The Architecture of India, Buuddhist and Hindu”, 現在のカシアがかってのマガダ国のクシナガラ(クシナーラー)に比定されているが、僧院やストゥーパの発掘址しか残らず、現在建っているストゥーパと涅槃堂は、ブッダがこの町の郊外で入滅した故事によって今世紀に建てられたものである。紀元前の町の姿はサーンチーのストゥーパのトラナ(記念門)に刻まれたレリーフ彫刻などをもとに推定するほかはない。この絵は南トラナのレリーフをもとにパーシ−・ブラウンが描き、サティッシュ・グローバーが手を加えたもの。濠で囲まれた町の入り口に門が立ち、市壁の上の木造の建物は木と竹によるヴォールト屋根を戴き、その端部はチャイティヤ窓となっている。
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2 (From Kulbhushan and Minakshi Jain, クッチ(カッチ)地方の半分はランと呼ばれる低湿地で、雨季には冠水する。残りの部分は砂漠のような不毛の地であるが、ここにも点々と集落があり、土壁と草葺き屋根の家々は古代から現代にまで続く<住居−村>の原型のような姿を見せる。冠水を避けるために粘土を突き固めたプラットフォームを造り、その上に円形プランで円錐形の屋根を架けた「ブンガ」を建てる。これが主たる居室で、これに矩形の「チョーキ」と呼ばれる部屋をつけて台所などに用いる。クッチにはイスラムのスンナ派の人々と、ヒンドゥのハリジャンが住むが、同じ村に共存する場合には別々のクラスターを形成する。
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3 (From Diana L. Eck, “Banaras, City of Light”, 3,000年の歴史を閲してきたヒンドゥの聖都で、紀元前5世紀頃にブッダが訪ねた時にはカーシー国の首都であった。現在は人口約 100万の大都会であるが、旧市街はガンジス河沿いに細長く伸び、細い道が迷路のように走って住居や店舗、そして寺院やモスクが高密度にひしめきあっている。道は階段状になって聖なる河に降り、沐浴のためのテラスをつくる。これをガートと呼び、それぞれのガートには固有の名前が付けられ、その連なりは3kmにも及ぶ。人々は夜明けにガートに降りて対岸の日の出を拝みながら沐浴する。河に面して聳え立つ石造の建物群はイスラム支配の 17世紀以降のものであって、古代や中世の寺院は残っていない。
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4 (From 神谷武夫「驚異の砂漠都市・ジャイサルメル」,
西インドのパキスタン寄りに広大なタール砂漠があり、その中央にかつてのジャイサルメル王国の首都が忽然と現れる。バッティ・ラージプート族の王ラーワル・ジャイサルは、1156年にこの地を選んで新都を建設した。トリクータの丘の上に堅固な城塞を造り、大きな窪地にガディサル湖を造って水源とした。町はインドと西方を結ぶ砂漠の隊商路の中継地として栄え、1722年からは城下町が発展し、1750年には市壁で囲まれた。王族はヒンドゥだが商業の実権はジャイナ教徒が握っていたので、城内町には王宮のほかに優れたジャイナ寺院群がある。城内町も城下町もすべての建物が黄砂岩で造られ、そのファサードは宮殿や寺院ばかりでなく民家まで緻密に彫刻されていて、往時の繁栄を物語っている。とりわけハヴェリーと呼ばれる豪華な邸宅群は街のランドマークとなっている。イスラム建築の影響を受けてはいるものの町の構成は幾何学的でなく、自然発生的で不規則な道路パターンをしている。 ![]()
5 (From Raj Rewal, and the Architectural Research Cell, ‘Jaisalmer’, 上図は城内の王宮群と街並みを描いているが、広場も道も不整形で全体的な計画性に乏しい。町は戦乱にあうことなく、中世の砂漠都市の姿をそのまま残している。しかし英領時代に海洋貿易が発展して町はさびれ、独立時にパキスタンとの国境線がひかれて忘れ去られた。近年は観光地として活気を取り戻している。
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6 (From Susan Gole, “Indian Maps and Plans”, Manohar サンガーネルは 古くから染め物の布地で名高い町で、ジャイプルの南約 11kmにある。櫓の建ち並ぶ 市壁で囲まれていて、右手のジャイプル門には トリポリアと呼ばれる3連のモニュメンタルな門が 二重に建っている。ここにクリシュナ寺院、少し先に有名なジャイナ寺院がある。この地図の描かれた時代は不明であるが、この町は 今もあまり変化がなく、道路や建物は ほとんど このまま残っている。ジャイプル門と左上の門とを結ぶ道が メインストリートであるが、都市全体が矩形に囲まれているわりに 道路パターンが不規則なのは、市壁が後世に造られたことを示している。 (本では モノクロで掲載)
![]() 『都市史 図集』 彰国社、1999年、61ページ、「伝統的都市ー2 南インド」
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1 George Michell, “In Praise of Aihole・Badami・Mahakuta・ かつてはヴァーターピと呼ばれ、チャルキヤ朝の首都として6世紀半ばから8世紀半ばまで繁栄した。南北を赤砂岩の岩山に囲まれ、東にタンク(人造湖)を造り、西側に町を建設した。都市の防備と、魅力的な自然−都市景観を兼ね備えた土地選定である。南の岩山にはヒンドゥ教とジャイナ教の4つの石窟寺院があり、湖の周囲や北山には初期の石造寺院が多く建てられた。南北の山上には城が築かれて町を守ったが、現存の城址は 18世紀のイスラム時代のものである。チャルキヤ朝は南のパッラヴァ朝と覇を競い、ヴァーダーミを奪われたときにパッタダカルに都を移した。
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2 Pierre Pichard, “Tanjavur Brhadisvara, an Architectureal タンジャーヴールは9世紀から 13世紀にかけてチョーラ朝のもとで栄えたが、特にラージャラージャ1世の時代に首都とされ、1010年に大寺院が完成した。現在は人口 20万ほどの都市であるが、17世紀のナーヤカ朝時代の都市構造をよく残している。濠−運河で囲まれた都市は大きくふたつの部分に分かれ、北に王宮を中心とする市街地、南にチョーラ朝最大のブリハディーシュワラ寺院の地区がある。かつて寺院には数百人の祭司をはじめとして 1000人を超える人々が所属し、また耕地の貸借など寺院と契約関係にあった市民も多く、ヒンドゥ寺院は都市においてきわめて重要な役割を果たしていた。
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3 (From Virginia Fass and Christopher Tadgell, イスラムのムガル帝国の支配がデカン地方に及ぶと、これに対抗してヒンドゥ教を奉じるシヴァージーがマラータ王国を打ち立て、ゲリラ戦を戦うための山城を各地に築いた。1664年には海抜 870mのラーイガルの山上で戴冠式を行い、ここを首都に定めた。山上の台地には 300を超える公共の建物があり、2,000人が住んでいたという。王宮は南側に位置し、北側にはジャグディーシュ寺院とシヴァージーの廟、そして中間に大通りをはさむ直線的なマーケット街が設けられ、貯水槽も多く造られた。その後王国は3次にわたるマラータ戦争で英国に敗れると、1818年にラーイガルも英領となり、廃都となった。
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4 (From A.H. Longhurst, “Hampi Ruins Described and Illustrated”,
イスラム勢力が北インドからデカン地方へと南下してくると、ヒンドゥ勢力は結束して南インド最後の大王国を建て、1336年にその首都の建設を始めて「勝利の町」を意味するヴィジャヤナガラと名づけた。この王国は南インドの大部分を支配する帝国に成長し、首都は繁栄した。トゥンガバドラ川で守られた北側には多くの寺院を配して「寺院地区」とし、南側には市壁、城壁を造って防備を固めて宮廷地区と市街地をおき、その中間を農耕地としている。寺院群は伝統的な様式を発展させたヴィジャヤナガラ様式で建てられたが、宮廷の建物や軍事施設にはイスラム建築の影響がみられ、アーチやドームも用いられている。 ![]()
5 (From George Michell, “The Vijayanagara Courtly Style”,
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6 (From George Michell, “Architecture and Art of Southern India”, マドラス(チェンナイ)の南東 132kmにあるジンジーの町の創建はチョーラ朝にまで溯るが、現存の都市遺跡はヴィジャヤナガラ時代の 1442年にナーヤカ(領主)によって建設された。西のラージャギリと北のクリシュナギリ、それに南のチャンドラギリの3つの丘の上に城を造り、そこから伸びる長大な城壁が丘を下って平地の都市を三角形に囲む。ラージャギリの下には宮廷地区があり、街と区画する囲壁と城門をもつ。チャンドラギリの下には大寺院があり、あとは市街が広がっていた。堅固な城壁にもかかわらず、ビジャープル王国やマラータ王国に侵攻され、さらにフランス軍に占拠されて、1762年には英領となった。
■ 神谷武夫「インドの建築」,東方出版,1996 |