| インド建築入門 |
| インド建築への誘い |
| インドの宗教と建築 |
本書において私は、できるだけ多様なインド建築の姿を紹介したいと思う。 歴史的にも、地理的にも、宗教的にも、建物種別においても、インド建築のもっている大きなバラエティと包容力を示したいと思うのである。 本書の写真をざっと眺めると、そのあまりの変化に富んだ種々相に驚かれることだろう。 ヨーロッパの建築に比べてさえ、インド建築はあまりに多様で、一貫性がないと思われるかもしれない。
その一つの原因は宗教の多様性にある。 ヨーロッパでは中世から現代に至るまで、原則的にキリスト教を信仰してきた。 カトリックとプロテスタントの違いというのは、それほど大きなものではなく、建築的に様式の区別を生んだわけではない。 ちょうどヒンドゥ教のシヴァ派とヴィシュヌ派の違いや、イスラム教の<スンナ派>と<シーア派>の違いがそうであったように。 インドにおける支配的な宗教は、誰もが知るとおりヒンドゥ教である。 しかしこれは西洋的な概念の宗教とはいささか異なっている。 仏教やキリスト教のように創始者 (開祖) がいるわけではないから、仏教がブッダの教えであり、キリスト教がイエスの教えであるというようには、誰かの教えであるわけではない。その根本をなすのは、天から伝えられたとされる 『ヴェーダ』 の文学、『ラーマーヤナ』 や 『マハーバーラタ』 の叙事詩、そして 『マヌ法典』 などの法典類である。
ヒンドゥ教というのは、あえていえば 〈インド人の思考形態や生活習慣の総体〉 とでもいうべきものである。 それがまだ十分に体系づけられていなかった古代的な姿を、後の成熟した段階と区別して<バラモン教>と呼んでいる。 生まれによるバラモン階級のみが司祭として、神と人との間をとりもつことができる祭式宗教であったからである。
仏教のマハーボーディ寺院、ボードガヤー この二人はたいへんによく似た境遇を生きた。 ともに東インドのビハール地方の<クシャトリヤ>(王侯、武士)階級に王子として生まれ、結婚して子供をもうけた後、すべての財産や家族を放棄して沙門 (シュラマナ) となり、長い苦行と瞑想ののちに悟りを開いた。二人の生没年には諸説あって定説はないが、マハーヴィーラのほうが年長であった。 ブッダは悟りへの道として 「苦楽の中道」 を説いたが、マハーヴィーラは徹底した苦行主義であり、その根本的な教義は<アヒンサー>(非殺生、非暴力) であった。 ジャイナは中央集権的な教団を作らず、布教にもあまり熱心でなかったから、大勢力となることはなかった。 一方仏教は教義の穏健性のゆえに広く普及し、また支配階級と結び付いたので、バラモン教を押しのけてインドの支配的な宗教となることができた。 なかでも熱心に仏教を擁護したのは、前 3世紀にインドの大部分を征服したマウリヤ朝のアショーカ王である。
古代の建築遺産としては、仏教は多くの遺跡を全土に残しているが、ジャイナ教のものはごくわずかしかない。 そして不思議なことにはバラモン教のものは何一つ残っていないのである。
チベット仏教のティクセ・ゴンパ (僧院)
ヒンドゥ教は高度な哲学的発展をするとともに、インド各地の土着信仰や神々、伝説や習俗を呑み込んで人々の心をとらえ、一冊のバイブルには納まりきらない膨大な神話や法典の体系となった。
ジャイナ教のマハーヴィーラ寺院、クンバーリアー
他方、ジャイナ教は仏教とちがって国外に出ることがなかった代わりに、西インドを中心として連綿と生きつづけ、多くの建築遺産を残している。 勢力としては少数派であったから、建築的にも仏教やヒンドゥ教の後追いをすることが多かったが、11〜15世紀の西インドにおいては飛躍的な発展をした。
外来の宗教であるイスラム教は、7世紀のアラビアの地に生まれた。 預言者ムハンマドが神の言葉を人々に伝え、それは聖典としての 『コーラン』 に書き残されている。 その最も重要な教えは、神は一人であるということ、そして神の前には総ての人が平等であるということである。 この平等思想のゆえに、イスラムは短期間のうちに西はスペインから東は中央アジアへと広まった。
イスラム教のサリーム・チシュティー廟、ファテプル・シークリー
インドへの侵入は 11世紀に始まり、西隣りのペルシャのイスラム建築がもたらされた。 16世紀に成立したムガル朝はそれをインドの土着の建築と融合させることにより、インド・イスラム建築を絶頂に導くのである。
だからといって、ムスリムが異教の建物や文化を徹底的に破壊したと思うのは早計である。 むしろイスラム教は異教徒に寛容であった。
キリスト教のアフガン記念聖堂、ボンベイ インドへのキリスト教の伝来はきわめて早く、伝説では使徒トマスがインドに伝道の旅をしたというが、真偽のほどは定かでない。 ローマ・カトリック教会は 16世紀にポルトガルによってもたらされ、ゴアやコーチンには当時の 教会堂 や 修道院 が多く残されている。 インドを英国が支配するようになると英国国教会がもたらされ、四大都市をはじめとして各地にカテドラルや教区教会堂が建てられた。
外来文化としてのイスラムと比較すると、キリスト教の場合にはあくまでもヨーロッパ風の建築形式による<コロニアル・スタイル>をとり、土着の建築との融合は求めなかった。 それは、キリスト教の方がイスラム教よりも非寛容の宗教であることを示しているのかもしれない。
当然ながら現代建築においては、宗教は建築の発展のうえで大きな役割を果たしてはいない。 新しい寺院が建てられる時にも、おおむね古いスタイルで建てられる。 |
| インド建築の紹介の方法 |
| 結語 |
インド建築の 「特性」 を探求する 26章の旅は、古代の牧歌的な土饅頭や洞窟で始まり、コンクリートやガラスで高層化した現代建築で終わった。 インド亜大陸に散らばる膨大な建築遺産からすれば、160ヵ所の建物というのはごくわずかな数にすぎないかもしれないが、しかしさまざまな時代や地方の典型的なスタイルや特徴的な形態は、その多くを示しえたのではないかと思う。 それだから、本書にひととおり目を通された方は、インド建築の多様性に改めて目を見はったことだろう。
とりわけ木造建築の存在は意外であったかもしれない。 2度 3度とインドを旅しても、目にするのはほとんどが石造建築であって、ヒマーチャル・プラデシュ州やケーララ州を旅して木造のヒンドゥ寺院をじっくり見てきたという人は、あまり多くないはずである。
一方、南のケーララ州はずっと旅がしやすいが、しかしこちらのヒンドゥ寺院は異教徒に厳しい。 上半身は裸となり、下半身にはルンギという白い腰巻をして裸足になって、やっと境内に入れてくれる寺院も、カメラの持ち込みはまず許されない。
そのようにインドの旅は楽ではないけれど、行く先々に新しい驚きがあり、発見がある。 それだから、インド建築の特性を論じられるようなキーワードをピックアップすると、たちまち 26もの章ができてしまうのである。
マリカールジュナ寺院の柱頭彫刻、クルヴァッティ
さて 26章の旅では、個々のキーワードについての特性とその種々相を見てきたのだが、それらすべてを通じての、インド建築の最も大きな特性とは何であろうか。 それには二つのことが言えるだろう。第一は、インド人があらゆる造形芸術の中で 〈彫刻〉 を最も好んだので、建築をも彫刻のように作ろうとしたことである。 これに比べると壁画はずっと少なく、彫刻ほどに重要な役割を果たしていない。 日本人の絵画好きとは対照的で、その傾向は近代まで続いた。 建築家のアントニン・レイモンドはその自伝の中で、インド滞在時の印象を次のように書いている。《インドにあまり画家がいないのが、私には不思議であった。日本ではわれわれの小使いですら絵かきであったし、その絵もよかったものだ。》 (三沢浩訳)
インド人は、建物の内外を彫刻で飾ったばかりでなく、建物全体をも巨大な彫刻とみなして、<マッス> としての造形表現を探求した。 それは、建築が<スペース>(空間) を囲み取る技術であり芸術であるという考え方とは対極に位置する。
ナーゲーシュワラ寺院のゴプラ上部、クンバコーナム それをゆり戻して方向を修正させたのがイスラム建築の到来であった。 偶像崇拝を徹底的に拒否する<イスラム>は、彫刻や絵画などの偶像的表現を禁じ、空間を囲み取る皮膜としての建築を発展させてきた。 これがインドの伝統的な建築に刺激を与えて、軌道を修正させたのである。 一方、インドのイスラム建築は逆に土着の建築の影響を受けて、他のイスラム圏の建築に比べると、きわめて彫刻的で外向きの表現を獲得することになった。 ペルシャ的な造形言語の タージ・マハル廟 でさえも、インド建築であればこそ、あれほどに見事な彫刻的表現を獲得したのである。 第二は、インドの主要な建築は石造であるにもかかわらず、木造的な原理で建てられているということである。 古代インドでは今よりも木材が豊富であったから、インド建築は木造起源であって、中世に石造建築が主流になってもなお、木造的な架構と表現に執着した。イスラム建築がもたらされて <アーチ> や <ドーム> の構造が伝えられたあとでさえ、柱・梁の軸組み構法に執着して石を木のように使い続けた。
シカンドラのアクバル廟と、アーグラのチャトリ
そこでは構造的な優劣よりも、体にしみこんだ美感覚の方が重要だったのだろう。 インドに移植されたイスラム建築もまたその影響を受け、他のイスラム圏では見ることのできない軸組み的なイスラム建築を発展させたのである。 重たげなドーム屋根を、アーチを用いずに細い柱と梁だけで支える<チャトリ>はその典型である。
それはちょうど単旋律のインド音楽と似ている。 西洋のポリフォニー(多声)音楽に比べると、単旋律の音楽は原理的には劣っている。 けれども芸術的な達成は、原理だけで優劣を比較できるものではない。 インドの音楽は単旋律であっても、それを徹底的に探求することによって、きわめて高度な理論と音楽表現を獲得した。 |
